昨年の七夕時分に考えていたこと。
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7月3日(木)「哲学と大学」第5回「マックス・ウェーバーの学問論――大学のアメリカ化と知識人の「責任」」@駒場に参加。
7月5日(土)「現象学と存在論」@三田に参加。
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アクチュアルであることを求める姿勢に一抹の居心地の悪さを感じざるを得ない。他の人がアクチュアルであろうとすることを戒めているわけではないし、自分の中にそういう傾向がないというのでもない。だが、日本の思想的伝統においては常に――柄谷の「掘立小屋の思想」を想起されたい――、アクチュアルであることがいささか無自覚的に徳とされてきただけにいっそう、私自身はアクチュアルであることに慎重でなければならないと思っている。
「アクチュアルであることに慎重になる」というのは「反動的になる」ということではない。それはむしろ「どのようなアクチュアルが問題になっているのかということに敏感になる」ということである。それはニーチェの言葉で言えば、「反時代的」になるということにほかならない。
《たしかにこれだけのことは古典文献学者という職業柄、私自身が白状して差し支えないに違いない。というのは、時代の中で反時代的に(unzeitgemäß)――すなわち時代に反対して(gegen die Zeit)そうすることによって時代に向かって、望むらくは将来の時代のためになるように――活動するという意味をもしもたぬならば、古典文献学がわれわれの時代においてどういう意味をもつかを私は知らないだろうからである。》(ニーチェ、『反時代的考察』)
《哲学は時代と本質的な関係をもつ。常に時代に反逆し、現実世界に批判的である哲学者は種々の概念を造り上げるが、それらは永遠でもなく歴史的でもなく、非時代的、反時代的である》。
脱構築とプラグマティズムが争ったとき、もっとこの点が深められるべきであったように思う。ショートタームでのリターンを常に求めるアクチュアル重視の姿勢は、結局のところ《資本主義の精神》にうまく回収されてしまいはしないか。
私個人は――繰り返すが、これは個人の哲学的な方向性の問題である――ana-chronieやdia-chronieといった奇妙でかつ効力をもった時間性のほうに興味をもつ。
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