シンポ一日目の翌日、朝9時半の電車に乗って仙台へ。
海外研究者に震災のことを間近に見て、何かを感じ、考えてほしいと願っていたから、
ほぼ全ての参加者を連れていった。
この企画が成立したのは、ひとえに東北大学のベルクソン研究者、村山達也さんのご尽力のおかげである。震災の爪痕を観に行くという行為は、ともすれば、人の心を傷つけかねない。とてもデリケートな行為である。記して深い感謝に代えたい。
そして、感じたことを率直に書きつけておきたい。不愉快に感じられる方にはあらかじめお詫び申し上げます。
***
震災後、半年が経った。すでに、なのか。まだ、というべきか。
連れて行っていただいたキリンビール工場裏の堤防までの住宅地は、曇り空、時々雨がちらつき、時々はきれいに晴れ渡っていて、いずれにしても何もなかった。
残っているのは、設計図のように構造を示す、家の床下部分だけ。がれきはほぼすべて撤去されていた。
入口らしきものはあり、たまに表札と壁もあり、入口へと続く小さな階段もあって、しかしその後には広々としたひたすら何もない空間がある。私たちは家々を「訪れる」。
あるひとは「現代のポンペイみたい」と呟いた。
家であったところには草がかなり生えてきている。家であった場所に、床下の「区画」に沿って、何か作物が植えられているところもあった。生命のたくましさというか、カタストロフが来ても、それでも自然は、ひとは生きていく。
でもね、と別の人が「呟く」。広々とした何もないこの空間では大きな声を出せないのだ。
「それは知性や仮構作用の限界かもしれない。この鉄棒の折れ曲がり方を観てごらん。とんでもない力がこれに加えられたことを示してる。」たしかに、澄み切った青空のもとで、ポンペイの遺跡のように整然と、けれども、恐るべき自然の力の爪痕がはっきり見て取れる。
なまなましくはなく、けれど何か…奇妙な感じ。
考古学の調査現場のようにきれいに片づけられ、わずかに残った車の残骸に、私たちの何人かが近づこうとすると、尻ポケットに手を突っ込んで近くに佇んでいた青年が、いたたまれないように、いらつくように、短く言葉を発した。彼と私たちは、同じ場所にいながら、同じ時間と空間を共有してはいなかった。
私たちが立ち去ろうとした時もまだ、彼は家であった場所に立って、やはり尻ポケットに手を突っ込んで、無理に胸を張るように、海のほうを眺めていた。
その後、やはりタクシーで、近くの小高い神社跡?へ。そこから眺めると、さらに広大な何もない空間が広がっていた。丘の上には木の慰霊塔が何本か、その足元には数々の花。小さな天使の像。小さな子どもに何かあったのだろうか。
そして、あんどーなつが一袋。誰が好きだったんだろうか、あんどーなつ。
感傷・良心の呵責・偽善…。そういったものと手を切ることは不可能だろう。
faire avec, vivre avecという言葉があるけれど、それしか言えない。
本当に時間がなくて、連れて行ったいただいた村山さんと田村さんには多大なご迷惑をおかけしてしまったけれど、行ってよかったと感謝している。
どうもありがとうございました。
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