Thursday, October 27, 2011

10/27 シンポ二日目無事終了!

今日は京大にて、常時30-40名いてくださっただろうか。
とりわけ私たちのプロジェクトを初期から支えてくださっている研究者の皆さんや
若い研究者の皆さんにお越しいただけた。

ただ、宣伝は、時間は短かったにせよ、かなり打ったつもりなので、
その意味では課題が残る。k先生やs先生のご助言を勘案しつつ、
次回以降、私たちのプロジェクトも、新たなフェーズに移行していく時なのかもしれない。

さて、第3セッションは「動的宗教とカタストロフ」について。ヴォルムス対杉村先生という、ある意味では今回のシンポの白眉の
対決であった。日本人でもここまでできるのだと、とても誇らしい気持である。

ヴォルムス氏はカタストロフを「それを蒙った者が「なぜ私たちが」と不公平・不正の感情を抱いてしまう全面的な破壊」と定義した上で、それに対するベルクソンからのありうべき二つの回答を示した。ベルクソン『二源泉』は愛の一元論に見えるという点で少なくともキリスト教的な色彩を持つとみられるが、実際には正義は複雑な様相を示しており、愛と正義の関係、キリスト教とユダヤ教の関係を問い直す必要がある。

他方で、杉村氏は、レヴィナス・アンリ・デリダといった「神学的転回」以後のフランス現象学の中の宗教哲学を、「無力な神」へのしかしながら徹底的な依存によって特徴づけ、神秘家の中に能動性を見てとるベルクソンとの中間地点にナベールを置く。ここでは、愛と力能との関係によって、人間と神との関係が計られることになる。

第4セッションは「神秘主義の諸問題」。岩野先生、ギラン、ケメックスの三者とも、生の過剰(sur-vie)をその否定的な相関項から逆照射する、という視点を選ぶ。岩野先生は、バタイユとの比較をとりわけ「死」の観点から、ギランは、神秘主義を科学技術の観点から、そしてケメックスは、動的宗教と呼びかけによる信頼と、静的宗教や仮構機能による保障の観点から『二源泉』を読み直した。

岩野先生とギランの発表はある意味で対をなしており、二人の暗黙の終わりなき対話を夢想できる。ヴァテルロ氏は、神秘家精神こそが機械化を招くと言ったが、アナーキーな神秘家観をもつバタイユの研究者である岩野氏は、はたしてベルクソンの創設的でポジティヴな神秘家観をどう捉えるのか――私は岩野氏のバタイユからするベルクソン読解がきわめて豊穣なものに映ったことを特に強調しておきたい。また、岩野氏はベルクソンの神秘家理解の根底にはキリスト教的ヴィジョンがあると言ったが、『二源泉』の校訂者であるギランは、これに対してどう応答するのか。

興味は尽きないが、これをもって、私たちは、政治・戦争・技術の問題を取り扱う第三日@福岡へと移る。東京・京都と連続して付き合って下さった方々も数名いらっしゃった。ぜひ我々との「哲学の旅」を福岡まで続けて頂ければ幸いである。

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