Sunday, December 31, 2000

フェチへの道(1) SMにおける「命令」(k00635)

 昨日から降り始めた雪が、今日になって、その勢いを急激に増している。雪は音を吸い込んで静寂をもたらしてくれるので好きだが、それは暖房が完備された部屋にいる場合である(花田清輝がデカルトだったかスピノザだったかの「foyer」を皮肉っていたのを思い出す)。リール人たちは口をそろえて、私に「ここ最近は温暖化現象が進んでほとんど雪も降らない」なんて言っていたのに。

 ところでmgさん、オランダ人Antonius Van Daleは、日本語ではどう表記されるのでしょうか?また、何の脈絡もないのですが、柄谷ゼミでお会いしたsさんはお元気でしょうか? また、nyさん、フォントネルのHistoire des oracles(1686)には定訳があるのでしょうか?

 研究とはつまるところ、狭義の翻訳・その要約(翻訳の圧縮)・その配置編成(翻訳のコラージュ・場所移動)、すなわち広義の翻訳にすぎないのだとすれば(これらの中に研究において一番重要と思われる「解釈」という要素が入っていないのは、当然これらすべてにそれが関わっているからである)、日常の我々の「手仕事」においては(公刊する場合には無論別種の論理に従うのであるが)、それらは区別なく、倦むことなく、自在になされねばならない。

 バリバールは、『マルクスの哲学』

[ちなみに、①邦訳は言葉の取り扱いが若干雑ではあるが、充分読める訳である(一つだけ訳し落としを指摘しておけば、邦訳40頁「矛盾を破裂させることであり、」と「実践的な活動というカテゴリーをそれ自体として立ち現わせること」の間には、「表象と主体性を分離することであり」が抜け落ちている)。

②バリバールの文章は、「おいしい」フレーズに満ちていて、引用の誘惑に抗しがたいことがしばしばある。この点はマシュレとは異なる。彼は文章家ではない。

③デリダのマルボウは、私の感じでは、その本質的テーゼ(ヘーゲル、そして何よりシュティルナーとのマルクスの格闘の重視(それによる、亡霊に代表される神秘的なもののマルクスへの密輸的継承)、『唯一者とその所有』の再読・再評価の必要性(それによる、デリダ自身の「固有なるもの」の主題の展開)など)の大部分において(シェイクスピアとの関連がデリダ自身の主題展開を容易にするのは分かるが、マルクスの理論展開のどのような側面をどう明らかにしているのかは(少なくとも今のところ私には)明らかではない)、この小さな本に多分に(彼が明示的に参照しているよりはるか以上に)依拠しているように思われる。

一例を挙げよう。マルクスには「何か遂行的performativeなものがある」として、少なくとも2度マルクスの”injonction”という語(マルボウ第1章のタイトルの一部ともなっている語)を用いているのはバリバールである(95年に出版されたという事情を勘案すれば致し方のないことではあるが、訳者は「指令」「厳命」と文脈で訳し分け特別の注意を払っていない)。 これらの解釈が興味深いものであるがゆえに、権利関係・優先権の問題は、一定程度こだわるべき価値をもつ。競馬ならば間違いなく写真判定に持ち込まれる微妙なこの問題に決定的な判断を下すためには、デリダが行なった講演の全貌とSMとを比較対照せねばならないが、そこまでこだわる価値はないので、事実を提示するに止める。刊行年はどちらも1993年、PM(バリバールのほう)の印刷完了月は6月、SMのBNへの法定納本が10月、印刷完了が11月である、というところまでは、私の仮説を支持する事実である。だが、そもそもSMは、マルクス主義に関する国際コロックの一環として「アメリカのカリフォルニア大学(リバーサイド)で、1993年4月22、23の両日に、2回に分けて行なわれた一つの講演」(p.10.)が元になっており、「増補し、より正確を期したが、にもかかわらずこのテクストは、講演の論述構造・リズム・口述的形態を保持している」(idem)のだという事実、そして何よりデリダ自身がPMについて、「多くの点で注目すべき、そして不幸にも、本書を書き上げた後で、その存在を知ってしまったところの著作」(p.116.)と述べて、この影響関係をあらかじめ否認しているという事実は、事態を加速度的に錯綜させる。デリダの言葉を信じるには、「SMに見られるテーゼのことごとくはPMにその萌芽を見出し、その逆は皆無である」という認識に人を到らしめる諸事実が充分すぎるほど多すぎ、それらのテーゼの重要性は大きすぎ、そして私はあまりにデリダ信奉者ではなさすぎるのである。]

の第3章「イデオロギーあるいは物神性―権力と服従」において、『ドイツ・イデオロギー』のイデオロギー分析に対応するものが、『資本論』の物神性分析であるとして、この「純然たる術語上の変更ではなく、理論的な別の代案」への移行(何故なら前者は少なくとも1852年以降はもはや決して用いられないのだから)過程を分析している(この点については、今や主著と呼んでよいであろう『群集の怖れ―マルクス以前と以降の政治と哲学』の「全編を通しての時間的かつ概念的な中心」(水嶋一憲)である「マルクス主義におけるイデオロギーの揺れ動き」の第1章「観念論の揚棄」でより詳細に展開されているようである)。

Friday, December 29, 2000

イデオロギーと宗教的なもの(k00633)

「マルボウ」(SM)の第5章の一部を訳出してみる(pp.236-237.)。ここでの翻訳は合田正人風、すなわち教育的なくどい訳で行ってみる。ちなみに鵜飼訳はもう少しあっさりしているが、やはり同じ路線である。教育的といえば、あの篠田カントの訳註(他のカントのテクストから参照個所をじかに持ってくる)は実に教育的だと思う。まあデリダに対しては出来ないが…。

デリダやラカンに対しては、"mot à mot"が最良と思われているようだが(ラカンの「セミネール」をじっくり、などというtのゼミもあった。が、私が学部生の頃、nyさんやsiやkkと「セミネール」の2巻を読んでいた時そういう方法はとらなかったはずだし、今もとらない)、必ずしもそうではない、ということの実証として。

重要なのは(少なくとも僕にとって)、デリダの字句を嘆賞することではなく、彼のいわんとするところだけを出来る限り正確にかつ素早く知ることだからである。彼のこじつけや自己正当化に一々付き合わねばならない理由はない。さて(幽霊・亡霊・幻霊という東さんの区別に出来れば従いたいが参照できないので、適当)、問題となっているのは、イデオロギーと「宗教的なもの」の関係(そして「亡霊」)である。

≪イデオロギーとは何か?今しがた「偶像という世襲財産」について語った際にざっと見たばかりの「生き残ること」の論理、とでも翻訳できまいか。もしそんな翻訳操作を行なってみたとすれば、いかなる利益があるであろうか。

 『ドイツ・イデオロギー』における幻霊的なもの[fantomatique]の取り扱い・処理加工は、マルクスがイデオロギー一般の分析において、常に宗教に認め、そして宗教や神秘神学[神秘主義的なもの]ないし神学としてのイデオロギーに認めていたところの「絶対的な特権」を告げ知らせる、ないしは確認する。幻霊がその形態を、すなわちその身体を、イデオロギー素に与えているのだとすれば、種々の翻訳がしばしばそうしているように、亡霊の意味論や語彙一覧を、それとほぼ等価と判断される様々な意味(幻影的なもの、幻覚的なもの、幻想的なもの、想像的なもの、等)の中から消し去ってしまうことによって欠けてしまうのは、マルクスに従えばまさに宗教的なものに固有のものなのである。

宗教的なものの経験を印し付け強調する限りでの、フェティッシュとも呼ばれる盲目的崇拝物の神秘的性格とは、何よりもまず幻霊的な[fantomal]性格のことである。マルクスがレトリックや教育的配慮から用いた表現上の便宜といったレヴェルをはるかに越えて、一方では、問題となっているのは、亡霊に絶対的に固有の性格であるように思われる。

たとえマルクスが社会経済的系譜学や労働と生産の哲学の中にそれを書き込んでいるように思われるとしても、この性格は、ある種の想像力の心理学ないしある種の想像的なものの精神分析以後、気ままに漂っているわけには行かなくなっているし、同様に存在論ないし誤-存在論から派生するというのでもない。

こういった推論はすべて、亡霊的生き残りの可能性を前提にしているのである。他方で、同時に、問題となっているのは、イデオロギー概念の構築における宗教的モデルの絶対的固有性[還元不可能性]である。したがって、マルクスが分析(例えば商品の神秘的性格ないし物神への生成変化の)に際して亡霊たちを召喚する時、我々はただ単にレトリックの諸効果や、想像力に強い衝撃を与えて説得することだけが目的の偶然的で注目するに値しない言い回しといったものをそこに見るべきではない。それにもしそうだとしても、それでもなおこの点に関してそれらの効力を説明せねばならないだろう。

「幻霊」効果の打ち負かしがたい威力[force]と独特の支配力[pouvoir]を考慮に入れねばならないだろう。何故それが怖がらせ想像力に強い衝撃を与えるのか、恐れとは、想像力とは、それらの主体とは、それらの主体の生とは何なのか、等々を言わねばならないだろう。

 「価値」(使用価値と交換価値の中の)の、「秘密」の、「神秘主義的なもの」の、「イデオロギー的なもの」の諸価値が、マルクスのテクスト、とりわけ『資本論』において連関を形成しているこの場所に、しばしの間、身を置いて、この連関の「亡霊的」運動を少なくとも指し示すことを(それは指標に過ぎないであろうが)試みてみよう。この運動が舞台に掛けられ上演されるのは、我々の盲目的な目を開く瞬間に我々の目から舞台が、あらゆる場面・光景がこっそり逃してしまうものの概念を形成することがまさに問題となっている個所においてである。さて、この概念は、まさにある取り憑きを参照することのうちに構築されるのである。≫

Wednesday, December 27, 2000

海の広さとerrata(k00629)

 「…も近々邦訳がでるそうですね」。しかしこの「近刊」情報が往々にして曲者なのです。例えば、再三再四藤原書店が予告を出し、我々に(私だけ?)今か今かと期待させておきながら、結局今や出版予定からも消えてしまい、「環」1号に第2章(これは私が読書会で最初に取り組んだ章、つまり第3章と共に最も分かりやすく、またさしたる重要性のないフクヤマ批判の章である)の翻訳を残すのみとなったデリダの『マルクスの亡霊たち』を、増田一夫は何故、早く出版しないのか?ymさんによれば、すでに翻訳は出来上がっているという話だが。

 確かに翻訳とは、たとえ小さなちょっとした本を訳すにしても、一つの海を創ることに似ている。そこに偶然的に漂流する異物を見つけ出すこともまた、言うほど簡単なことではないかもしれないが、それにしてもずっと容易い。例えば、イーグルトン「イデオロギーとは何か」の邦訳168頁「なにしろ素朴な経験論は、解釈や意味づけとは独立した形で「現実の生の過程」が存在することを理解できないのだ」は明らかにおかしい(「存在しない」である)、と指摘したり、また例えば、(私は破廉恥にも自分の修論から引用するが)

≪ドゥルーズの『ベルクソンの哲学の』訳者宇波彰は、問題そのものを構成し提起する創造的な力に関する記述を、「≪半ば心的な≫[正直に告白するが、僕もまた修論で変換間違いをした。正しくは≪半ば神的な≫]能力は、偽の問題の開花も、真の問題の創造的な現われも同じように含んでいる」と訳した。彼は「消滅」(evanouissement)と訳すべきところを、「開花」(epanouissement)と訳してしまったのだが、しかしこれはなかなか意義深い[今なら≪創造的な≫と言うところだ]訳し間違いというべきである。何故なら、日常の論理による「変容」に抗して、同じ「言葉」というものを用いて別の新たな「変容」を行なう以上、その変容、すなわち新たなる問題の提起・「発明」が「真なるもの」を産み出すという保証はどこにもないからである。(…)結局、提起される問題とその解決が「効力」を備えたものとなるか否かをあらかじめ決定することは出来ない。最終的で決定的な真偽の判断基準が存在しえない以上、効力の程度においては様々な主張が同時代には常にひしめき合っているのである。≫

と指摘することは、いくらやっても翻訳の大変さに比べれば児戯に等しい。しかし、誤訳指摘もまた当然一つの重要な作業・貢献・業績と見なされてよいので、各学会誌は関係書籍の誤訳指摘一覧(自由投稿等による)をぜひとも作ったらよかろうと思う。

 だが、しかし、それにしても。ドゥルーズやデリダの幾つかの著書の翻訳は遅すぎる。下らぬ論文や著書を書く暇があったら訳せ、というのは酷かもしれないが、もしそれで暇がないと言うなら、はじめから幾つも翻訳を独占するな、と言いたい。

 その点、昔の徒弟制が必ずしも良いわけではないが、例えばクセジュの古典「18世紀フランス文学」は、良き時代の良い例であった、と私は思う。うろ覚えの記憶に頼れば、中川久定(ディドロ読み)・小林善彦(ルソー読み)・他一人(抑圧が働いているのかどうしても思い出せない)による共訳である。当初は(ありがちなことであるが)「桑原武夫」の名のみを冠するはずであった本書は、しかしすでに訳は出来ている、自分の名を冠するのはおかしいという判断で、ただ売れ線に(当時の)するために彼の序文を付し、三名の共訳として公刊された。こういう分業体制にすれば、訳業は大いに捗ると思うのだが。

 現代のデリダ・ドゥルーズ読みの大御所たちは、自分の名を冠することに拘り過ぎているのではあるまいか。大事なことは、きちんとした訳が時機を逸することなく世に出て、それが議論されることであるのに。

 みすず書房は、今でこそ「出版良心の鏡」のような顔ができるのかもしれないが、無論、花輪光のような悪行三昧もあるにはある。あの一連のバルト訳はひどい。フランス語が出来るとはとても思えない。法政ウニベルシタスの一部の翻訳書の質の低さといい勝負だ。

Re: 行商人、デリダの文体(k00628)

 リール電子交通網は2、3日前から大パニックのようです。さっき送ったメイルは、緊急手段を使いました。ところでmtさん、あまりに素早い返信ありがとうございました。私は普段は数日に一度、しかも自分が出した直後にメイルを受け取るので、こういう「速度」をあまり実感していなかったのですが。

>>難解とされている対象(ラカン理論、ドイツ観念論)を、軽薄とされて
>>いる大衆文化(ハリウッドの最新作、SF小説)を例にとって明快に読み解いて見せるこ
>>と
>ここを読んで東さんを思い出しました。

まさに!ここに(特に「目を引くにはこれが最も手っ取り早い方法…」の直後に)東浩紀さんへの言及を入れていたつもりだったんですが、編集の過程で消えてしまっていたようです。

 ちなみに私が強く「行商人」の印象を受けたのは、「アメリカの嫌いなところは…」とか「デリダの許しがたいところは…」、さらには「もちろんジャック=アラン・ミレールは私の友達ですが、私が思うにラカンの教えで彼のやり方と全く異なるのは…」などといったフランス人(分析家)のツボをおさえた発言もさることながら(アメリカでは逆のことを言っているのだろうことは十二分に予想がつく)、帰り際彼の著書を買い求めようとしていた女性に「そんな、お代なんていいから…」と会計の女の子から金をひったくって押し戻した姿(大統領になろうとしただけあって、心得ている)、リールの精神分析家2、3人と駅のほうへ消えていく(狭い街なので、講演が終わってからまた街中で見かけたのです)彼のチノパンにダンガリーのシャツ一枚(しゃべりまくるからそれでも汗だく)、ヤッケの上からリュックという学生のようないでたち(少し大きなttさん、という感じ)で、帰り道でもしゃべりまくっていたあの姿。彼が今ほどは売れていなかった頃からバックアップしてくれた(?)というリールの精神分析協会への、あれは彼なりの心づくしなのかもしれない)。



 デリダのあのスタイルは、病的なまでに高められ洗練された自己防御の姿勢である。彼はもはや「何故私はここで発言するのか」「何故」「この場所で」「今」と問いを分割して問うことに数十ページを割くことなしに、著書を始めることは不可能なのである。「病的」な過ちを指摘されることへの怖れは、あれほど錯雑としたスタイルの著書を作りながら、いやそのような著書を作らざるを得ない理由と表裏一体の「徴候」として、彼の著書に誤植を見つけることは困難である。あれは異様に綿密に校正をやっているに違いない。

 本当にデリダの「スタイル」は、彼の「思想」に必要なのだろうか。「自由にせよ、平等にせよ、その正確な定義などがどうして求められえよう、未来はありとあらゆる進歩へとうち開かれているというのに。とりわけ未来は全く新しい条件の創造へと、今日のところはまだ実現されえぬ自由や平等、いやおそらくはまだ考えることすら出来ない自由や平等の様々な形態が、そこで可能となる条件の創造へとうち開かれているというのに。我々に出来ることは、せいぜい粗筋を描くだけのことでしかない」。

 「来たるべき民主主義」や「メシア主義なきメシア的なもの」が意味するのがこの引用文以上のことであるのならまだしも、この程度のことはベルクソンにだって言えるのだ。というか、この引用はベルクソンからのものである。

 デリダは大思想家であり、彼はあのようなスタイルで書いた。ゆえにそこには何がしかの解くべき秘密が隠されているに違いない。という想定の下に書かれた出来のよい学生のレポート。というとあまりに言いすぎだろうけれど。いや、やはりそのように解釈すべきではない、東さんの著書は。

知の行商人(k00626)

 ひょっとしたらすでに『現代思想』の特集号などにもっと完全なものが出ていたのかもしれませんが(あるいはおそらくほぼ確実に"Zizek Reader", BlackwellReaders, 1999. にはあると思われますが)、現実逃避にジジェクのbiblioを作ってみました(全く不完全なので、各言語の追加情報をお待ちしております)。

 処女作『最も崇高なヒステリー患者-Hegel passe』(1988)は、「ジャック・アラン・ミレールの指導のもとに作成され、1986年11月にパリ第8大学精神分析学部で受理された第3期課程博士論文「徴候と幻想の間にある哲学」に手を加えたものである」(原著、p.10.)が、フランス(語)で、精神分析系の小出版社から出版されている。

 巻末のbiblioによれば、1983年にはすでに、パリの精神分析雑誌の≪政治に関する精神分析的パースペクティヴ≫と題された特集号に「スターリニズム:unsavoir decapitonne」という論文を、二年後の1985年にはミレールの主催する(すなわち「正統」ラカン派の)雑誌に「政治権力とそのイデオロギー機制について」を執筆しており、修行時代をパリで過ごしていたこと、当時から今と変わらぬモチーフを持っていたことが窺える。

 この処女作自体がすでに彼のスタンスをはっきりと表している。すなわち難解とされている対象(ラカン理論、ドイツ観念論)を、軽薄とされている大衆文化(ハリウッドの最新作、SF小説)を例にとって明快に読み解いて見せること、知の行商人に徹することである。

 他人(教養を持った大衆層、学生層だけでなく、狭義の知識人層まで含めて)の目を引くにはこれが最も手っ取り早い方法であることは明らかであろう。我々はこの彼の知的=政治的スタンスを彼の出自、非西欧と結び付けるべきだろうか。少なくとも、非西欧国出身の知識人はどういう戦略を駆使して「のしあがる」(といって悪ければ「同じ土俵に立つ」)ことが可能になるか(多くの点で共通点を持つイーグルトンとの比較は、この点でも興味深いだろう)ということの顕著な一事例であることは間違いない(王子さんのクッシーとの共著のスタイルも、この点から考察されるべきだろう)。

 この飽くことなき行商人魂は当然、言語の選択にも表れている。次の第二作『イデオロギーの崇高な対象』(1989年)は、英語で、ロンドン-NYの左翼系出版社Versoから出版されている。この著作の「成功」(どの程度の規模のものなのかは知らない)が、MIT Pressという一見硬そうな(実像は全く知らないが)出版社から『斜めから見る』(1991年)を出すことを可能にしたのであろう。以後、この行商人は、もっぱら英語でしか書かないことにしているようである。

 世界市場を考えれば当然の選択だろう(この点は、デリダとの比較が興味深い。デリダは「他者の単一言語使用」などといって自分の辺境性を強調したいようだが、所詮彼だってvery French ! なのである。この機会に指摘しておきたいが、ほぼ同様の言語戦略をとることが外国人にもできたとして(それ自体は全く掛け値なしに快挙なのであるが)、果たして同様の受け入れられ方をしたかはきわめて疑わしいところである)。

 ほぼ毎年着実に新作を送り出し(英語の著作は19)、1999年には、「時の人」「話題の人」になったことを意味するReaderシリーズに加えられるほどにまで「栄達」の道を極めた。矢継ぎ早に繰り出されるパンチはいささか新味に欠くところもあり、消費スピードが桁外れに速い日本ではいささか消費され尽くした感もあるが、出発地点のフランスにおいては僕の知る限り6冊程度、さほど噂になった様子もない。対照的なのはドイツで、現在までに(僕が確認しえたものだけで)16冊、それも日本よりは流行の消費サイクルがゆったりしている(ごく最近、立て続けに(ポケット版も含めて)翻訳が出ているようだ)。

Wednesday, November 29, 2000

熱狂・ジャイアン・メディア(k00634)

 mgさんとmtさんのお話、実に実に興味深く読ませていただきました。当時の独英における熱狂論の布置をもう少し詳しく教えていただけると本当に助かるのですが…(自分でも調べてはいるのですが、フランスの辞書では、そこらへんには限界がありまして…)

 ちなみに時代をもう少し下って19世紀初頭(18世紀フランスはご存知でしょうから)、おやっさんの本から引用しますと、

「スタール夫人はかくして、フランスで巧みに普及させた驚くべき解釈によって、カントを典型的な熱狂の哲学者として紹介するに至った。そしてこの状況は、1830年以降、カントの主要な作品が翻訳されて、彼女の解釈を修正することが出来るようになるまで続いた。スタール夫人個人の思想において熱狂という概念がどんなに大きな位置を占めているかは、周知のとおりである。『ドイツ論』の最後の三章は、ある特定の歴史的文化を紹介するという範囲を越えて一般的な射程をもっており、この熱狂という問題に当てられている。・・・」(『文学生産の哲学』、邦訳43頁)

ちなみにこの本は、フランスにおける哲学(特にドイツ)の受容史に関しては、ちょっとしたものである。

>>mgさんへ

>このへんあまり事情を知らないのですが、
>樫山キンシロウの訳は要するにどうだということなのでしょう。

 いえ、単に僕には一文の意味すらも分からないという個所が頻出する、というほどの意味しかないんですが(笑)。

>むかし、樫山の『悪の問題?』とかいう本は読みました。

 どうでした?僕は彼の「解題」「解説」しか読んでいないので、研究者としての側面について何も言う資格はないのですが…

>あるカント研究書の翻訳は、一格(主格)と四格(目的格)を間違えて
>ました。

 最初は、「んなばかな」と笑ってしまいましたが、(m)ichですか…。トライの宣伝なら、「mich。mを取っても自分です」とでもなるのだろうか。ああ、それに中性名詞なら…。

>>mtさんへ 「t大英文ラカン派」、そのうちの一人はひょっとして、多少仏文がかっていたりするのでは(笑)?仏文のゼミではまずありえない話ですね。デリダ派とまでは行かなくとも、バルト派とか、せめてジュネット派とかあってもよさそうなもんだが。「流行」があってはじめてそれとの対決・乗り越えとか回避・忌避といった動きが可能になってくるし、さらには沈黙や無関心といったことまで意味を持つことになってくるのだと思うのだけれども。動きがなければ、摩擦もない。無風の凪では、新たな波も寄せてはこない。

 「読書会」。こちら北の果てでは、おやっさんの会員制シークレットライブが行なわれております(以下のアドレスで原稿読めます。http://www.univ-lille3.fr/www/recherche/set/sem/Vico4.html)。

 ジャイアン・リサイタルのごときワンマンショーでありますが、間口は広く、ほとんど何でも来い状態なのは良いことです(ゼミタイトルは「哲学、広義の」であります)。私も組の若い者として見込まれたらしく出入りが許可されたので、行っていつもの調子でべらべらやってまいりました(外国人でなかったら、どやしつけられるところであります。というのは嘘ですが、まぜっかえされるのは確かです。負けず嫌いノルマリアンなのです)。

 理論的深度はともかくも、博覧強記であることだけは間違いないので、文学・哲学に関する貴重な「情報」には事欠きません(一例を挙げますと、ある日、ヘーゲルの授業で、メディアのことに言及したら(先のラカン派とは違って、これには文脈的必然性が明瞭な形であったのでありますが)、「しかしメディアといっても君、エウリピデス版もあれば、セネカ版もある、ああ、それにコルネイユ版だって…」。すでにスタンジェールを読んでいて、「どうせおやっさんは大して知らないだろう」とたかをくくっていた私も、特に最後の奴にはびっくりしました。コルネイユといっても、小の方(弟トマ)ですよ!!

 日本の仏文学者だって、何人知っているか…こんなことを言ってくれる哲学者はフランスでもなかなかいないはずです(分業化が仕事の上だけならいいのですが、現代では(このMLの哲学者たちを別とすれば)、どれほどの哲学者が文学に親しんでいることか…)。

>>皆様へ 決して忘れていたわけではなく、訳に少し問題があって中断せざるを得ないままになってしまっているのですが、お約束した「メディアであること」の前半部分を添付します。

>>isさんへ

 1) いつだったか「添付ファイルは、ネチケットに反する」等とNTTの友人に言われた気もして、前回のデリダ訳はそうしなかったのですが(今回はすでに長いのでそうしましたが)、isさん、どちらのほうが良いのでしょう?

 2) あと、「ML復帰嘆願書」に「岡道男云々」と書いていたのは、メディア関係で何か面白そうな論文はないかという魂胆があってのことだったのです。4つのヴァージョン(大コルネイユも含めて)と、関係論文を集めて、「メディア集成」とでも題して、筑摩あたりから出してもらうよう売り込もうかなんて考えていたのですが…(笑)

 コルネイユに関しては専門家の心当たりがあるのですが、関沢さん、セネカ訳してみませんか、なんて。 ちなみにジジェクも、「今、アンチゴーヌよりもメディアに関心を持っている」と言っていました。

Saturday, November 25, 2000

すべては政治的である、のか?(k00592)

"Tout est-il politique ? (simple note)", Actuel Marx no. 28, pp.77-82.(承前) 

≪この論理に従えば、「すべては政治的である」は原理的な所与であるということになる。そして、ある制度ないし知(ないし術)から切り離された領域としてあるはずの「政治」自体が、何よりまず己れの表明し指し示している自然の全体性を実現するために、己れ自身の[他領域との]区別[分離]の廃棄を目指すことしかできない、ということになる。そうだとすれば、最終審級にあっては「すべては政治的である」と「すべては経済的である」との間に相違はないことになる。

こういうわけで、民主主義と市場は、互いに手を携えて、今日「世界化」と呼ばれているプロセスへの道を自分たちのために切り開いているのである。「すべては政治的である」はしたがってまた、次のような主張に行き着くことにもなる。己れ自身の自然本性[人間本性]の生産者と見なされる、ということはその内に表れている自然全体の生産者として見なされる「人間」には自足がある、と。

この自己充足、この自己-生産という漠然とした表象は、今日までのところ、「右翼の」であろうが「左翼の」であろうが、「政治」の表象をすべからく支配している。「国家的」であれ「反国家的」であれ、「合意に基づいた」ものであれ「革命的」であれ、何にせよ、少なくとも広範な政治の「プロジェクト」を旗印に掲げた表象はすべてそう捉えられる。(単なる調整や不均衡の是正、緊張の緩和などといった、政治のおとなしめのヴァージョンもあるにはある。よくやっていると言えるときもあるが、妥協を重ねていることも多いあの「社会民主的」手間仕事がそうであるが、その背景はやはり同じである。) 

したがって、今日政治の「危機」「不振」「麻痺」と名付けられているものが提起する問題とは、ひとえに人間の、そして/あるいは、人間の内でのないし人間による自然の、自己充足である。ところで、まさにこの自己充足こそは、現在という時が日々少しずつその薄弱さを明らかにしているところのものである。というのも、世界化、-すなわちpolisの一般的なoiko-logisation-はいずれにせよそれ固有の展開の非-自然性を、絶えずより活発に、あるいはより暴力的に生ぜしめているからである(だがそれはまた、最終的には、「自然」と目されているもの自体の非-自然性でもあるだろう。我々は未だかつてこれほどある種のmetaphusisの領域にいたことはなかった)。≫

 この(とりわけ前回訳出した部分に顕著な)デリダ=ハイデガー的な語源学への露骨な依拠の方法論的妥当性はともかくとして、「経済的なもの」そのものを語ることを回避しようとする態度は一目瞭然ではあるまいか。人は「経済的なもの」について語っているつもりで、その実「政治経済的なもの」について語っているに過ぎない、しかもその「政治経済的なもの」の根底には人間と自然の錯綜した関係がある、というナンシーの議論の方向性は前回指摘しておいた通り、まさに「滞留」の渦の一つとしか見なせないものである。しかし、この議論の行く末をもう少し追ってみなければならない。

Thursday, November 23, 2000

デバ・ガメ(k00591)

 今日、偶然市立図書館で、YannickBeaubatie(dir.), Tombeau de Gilles Deleuze, Mille Sources, Tulle, 2000. という本を見かけた。もしかしたらどこか気の早い出版社や雑誌がすでに訳しているかもしれないが、ちょっと毛色が変わっているので紹介してみようと思う。

 まず出版地のチュール(フランスの中央少し下、へその辺りにあるコレーズ県の県庁所在地。同名の織物はここから来ている)をわざわざ特記したのは別にペダンからではなく、この本の特色と直接に関係するからである。この本の特色、それは何と言っても地方性である。

 この本の編者の言いたいこと、それは「ドゥルーズはリムーザンだったんよ(パリ生まれだけど)。そしてこのリムーザン気質こそが彼の哲学の発展に大きく寄与したんよ」(信州訛りを再現してみたつもり。ぜんぜん違うか)ということに尽きる。

 ちなみに(これは純粋にフランス地理ペダンだが)、ドゥルーズが夏の数ヶ月を過ごしに来ていたのは、コレーズの北西の隣接県、リモージュを県庁所在地とするオート・ヴィエンヌ県のサン=レオナール=ド=ノブラであるが、車のリムジンで有名な「リムーザン」とは中央山塊(マシフ・セントラル)の北西部のコレーズ・クルーズ・オート=ヴィエンヌの3県辺りの地域を指す。

 そういうわけで、わざわざタイトルもそのまま出したのである。Tombeau とは、もちろんクープラン辺りが源泉とされ、とりわけマラルメの一連のシリーズが仏文では有名な(「墓」という第一義からの)転用で、「偉大な個人に捧げられた詩・音楽作品」のことであるが、ここではそこからさらに反転して、「リムーザン地方に深い愛着を抱いていたジル・ドゥルーズは、当地に埋葬されることを強く望んでいたのである」という場所(空間)性・地方性を含んだ意味になっている、と解したほうが良いだろう(穿ち過ぎだが)。

 地方性を前面に押し出すことから(そうでもしないと、まず第一にドゥルーズ本人が哲学者における個人史の重要性をほとんど認めず、また哲学者としての側面以外の自らの個人史を彼自身がほとんど語っていないということがあり、第二に単なる「ドゥルーズと私」にはすでに新味が乏しいということがある以上)、個人としてのドゥルーズについて語ることがかろうじて許されるという構図である。

 確かに、ドゥルーズが地方のびっくりニュースに興味しんしんで毎日隣町までどっさり新聞・雑誌を買い込みに行っていたなどという全く瑣末な情報は、デリダがテレビ中毒で、特に毎週日曜日必ずと言っていいほどユダヤ・イスラムの宗教番組を見ているなどという情報同様、彼らの哲学の理解に何の関係もない。単なる好奇心、卑しいデバガメ根性である。

 「リムーザン地方でドゥルーズについて書かれた記事一覧」には笑い、「フランス語以外のドゥルーズ関係著書」のいいかげんさには呆れるとしても(タケシ・タムラがいつ「ドゥルーズの思想」を「書いた」というのだ!)、エリック・アリエズやジャン=クレ・マルタンの論文も読めるなどと口実をつける必要もないような、ともかく毛色の変わった本なのである(モーリス・ド・ガンディヤックがまだ生きていて、少なくとも回想録を書ける(というか、2年前の本から見て、最近彼はそれしかしていないのではないか)くらいにはまだ健在であるということも判明した)。

 さらなるデバガメ根性をお持ちの方は一読されたし。

Tuesday, November 21, 2000

マルクスのもとへの滞留(k00590)

***「まだ始まってもいない」。とても厭な、でもまとわりついて離れない言葉。考えているつもりで「考えさせられている」ないし「考えたつもりになっている」ことがなんと多いことか。

***「政治的なもの」について語ることが花盛りである。しかし、もはや飽和状態なのだろう。新マルクス主義者宣言の流行は、「政治的なもの」と「経済的なもの」との間での滞留の徴候である。 「政治的なもの」について語るだけでは現状に対して充分に有効な批判的言説を支えきれないことは自覚しているが、かといって一足飛びに再び「経済的なものの最終審級」へと舞い戻るわけにも行かず、さりとて新たな「経済的なもの」への移行ないし両者(政治的なものについての思考と経済的なものについての思考)の融合が容易に成し遂げられるわけでもないという滞留状況の徴候として、ドゥルーズ以後、デリダや柄谷をはじめとする一連の「宣言」は捉えられる。

 80年代にはリオタールによるカントの政治哲学の強引きわまりない奪取のそばで「政治の美学化」を批判しつつ、独自の「政治的なもの」についての思考を展開していたナンシーとラクー=ラバルトも、一見するとより露骨に「政治的」に語るようになってきているように見える(前者については後述、後者は現在マルクス論を準備中とのこと。藤原書店の「環」1号参照のこと)が、見落としてならないのは、それらの言説の背後に「経済的なものの影」とでも言うべきものが潜んでいるということ、マルクスは、現在のところ、実現するまでには至っていない模索の消極的な一時的帰結、着地点を見極めるまでのひとまずは強力な避難所としての役割を果たしているにすぎないということである。

***「滞留」は「停滞」ではない。「停滞」は別の場所にある目標へ向けての前進を前提とするが、「滞留」は必ずしもそうではない。

***Actuel Marx no.28(PUF, sep. 2000.)は、「政治哲学に独自の思考は存在するか」という徴候的な(末期症状的なとは言わないまでも)テーマを掲げている。ジャン=リュック・ナンシーは、そこに「すべては政治的である、のか?」と題するノートを寄稿しているが、我々の興味を引くのは、その中の「経済的なもの」の模索に対する彼の批判(我々の目にはある種の回避と映るもの)である。少し長いがその部分を引用してみよう。

≪今日、「政治は経済によって阻止され支配されている」などと時折言われることがあるが、それは性急な混同の結果によるものである。ここで「経済」(economie)と呼ばれているものは実際、かつては「政治経済」(economie politique)と名付けられていたもの、すなわち相対的に自足的な家族(oikos)のではなく、市邦(polis)の規模での生計・繁栄の維持・管理機能以外の何物でもない。「政治経済」は、polisをある種のoikosと(一つの自然的秩序(世代、血縁関係、土地・財・奴隷などの世襲財産)に属すると想定されたある集団的ないし共同体的実在と)見なすことに他ならなかったのである。

 したがって必然的に、oiko-nomiaがpolisの規模に移し変えられるということは、単に規模の水準において移動がなされるのみならず、politeia(市邦の諸問題に関する知)自身がある種のoiko-nomiaとして再解釈されるということを含意する、ということになった。だが、このoiko-nomiaは同時にそれ自身、もはや単に生計・繁栄(「良き生」)といった観点だけからではなく、富の生産と再生産(「より多く持つこと」)という観点から再解釈されることになったのである。

 結局のところ常に問題となっているのは、人間集団をどう解釈するかである。「政治的なもの」自体が全体として、全体化する、包括するものとして規定される限り、人間集団もまた「全き政治的なもの」として解釈されるほかはないが、人間集団があるoikosの包括性として、より正確に言えばoiko-logiqueな(その成員による天然資源の(語の原義的な意味での)concours[競合]ないしconcurrence[競争]の)包括性として自己規定することで、事態はまさに大方そのように推移してきたのである。それははじめ「重農主義」(「自然による統治」)と名付けられた。[訳注:concoursの原義は、「同一の場所に大勢の人が集うこと」であり、concurrenceの原義は「出会うこと」である。]

 同じ頃、政治的なoikosの成員の「自然の」本性[nature "naturelle"]を規定することが必要になっていたが、もはやoikoi に対して自律的かつ超越的な(それら以外の本質的存在に属しつつ、それらの基盤となり、それらを連合させる)秩序からではなく、原初に想定される「oikologie」から、すなわちoikoi間の人間同士の親交や人と自然との親交から市邦自体を構成することによって、この必要は満たされたのであった。こうして、ある「社会体」ないしある「市民社会」(市民の社会あるいは政治的社会、という語の厳密な原義における)の制度が、傾向としては、理想的には、原初的には人類自体の制度と同一のものとして与えられた。

 無論、人類は、第二の自然として、あるいは徹底して人間化した自然[nature entierement humanise](このような概念が矛盾したものでないとすればの話であるが。このことはおそらくはまさに問題の一つの核心であろう・・・)として、自分自身を自己産出する以外のいかなる最終目的をも取り立てて持たないのではあるが。

 この論理に従えば、「すべては政治的である」は原理的な所与であるということになり、そこから「政治」自体が、ある制度ないし知(ないし術)から切り離された領域として、何よりまず表明し指し示してきた自然的な全体性を実現するために己れの分離の廃棄を目指すことしかできない、ということになる。そうだとすれば、最終審級にあっては「すべては政治的である」と「すべては経済的である」との間に相違はないことになる。こういうわけで、民主主義と市場は、互いに手を携えて、今日「世界化」と呼ばれているプロセスへの道を自分たちのために切り開いているのである。≫

 長くなってしまったので、以下次回。自分のeuphoriqueな健忘症に抗することができますように。

Monday, November 20, 2000

Re: ソーカル(k00589)

***「まだ始まってもいない」。とても厭な、でもまとわりついて離れない言葉。

isさんへ

>なぜかこの本、僕の周りであまり話題になって
>いなかった気がするのですが(・・・)

 東京のごく一部のローカルニュースにすぎませんが、プリゴジンの自称弟子(翻訳者でもあります)は、この本に共感していたようです。ソーカルの本が標的にしている当のものをほとんど(あるいはまったく)読んだこともなく、それどころか人文科学一般についてただ漠然としたイメージしかもっていないにもかかわらず、それらをもとに「科学的思考に基づいて」判定を下せると考える大学人(無論理科系には限られないでしょう)には一定程度受け入れられているのではないでしょうか。

nyさんへ

 本当にお久しぶりでした。お元気ですかと聞くまでもなく、雑語を見れば分かりますね。こちらは、モグラだか、冬眠前の熊だか、ひっそりそれなりです。

mtさんへ

 マシュレもまた「ひっそりそれなり」の人です。彼はおそらくこのリール第三大学の中で最も古風な(しかしきわめて明晰な)授業を展開している哲学教授かもしれません。デカルトの情念論、スピノザの情動性、ヘーゲルの精神現象学についての授業は模範的といって良いでしょう。

 私はマシュレの長所は、鈍重で野暮で時代遅れかもしれないけれど、執拗に問いつづけ、彼なりの仕方で哲学しようとしているところにあると思う。この言葉へのこだわりの執拗さという点において、塩川徹也教授が自然と思い出されてきます。彼らのもとに身を置いて考えることを始めたいというのが、今漠然と感じていることです。それは正統への回帰や正統からの出発ということではない。彼らは、私が自分の下に材料を集めることのできるようないわば仮設的な「真空状態」を作ってくれる。通常感じずに済んでいる大気の重みを感じさせることによって。重みに耐えられなければ結局のところ考えるところにまでは至りつかない。私は京都でおそらくは考えるということの匂いを嗅ぎ、それへの憧れを持ったけれども、いかなる重みをも背負わなかった。東京でフランス文学を通して少しは背負うということを知った気がするけれど、哲学の重みを背負わなかった。残念ながら今ごろからようやく取り掛かろうとする、という感じです。

 どのような「場所」に身を置くかということは、物を本当に考える上できわめて重要ですね。「考える」というのは本当に難しい。考えているつもりで「考えさせられている」ないし「考えたつもりになっている」ということがなんと多いことか。どうしてもこの一種の循環の中から抜け出すことはできないと、あるいは端的に考える必要のないこと、考えるだけ無駄なことと考えることも可能かもしれません。しかし、少なくともどこに身を置くべきではないか・・・

Saturday, November 04, 2000

citephilo2000(k00578)

>mtさん マシュレの話はまたいずれじっくりさせていただきます。
>isさん 真紀子話ありがとうございました。

 今日は目下目前に迫っているあるイヴェントについてご紹介させていただくことにしましょう。リール市を中心とするノール・パ・ド・カレ地域圏において、11月8日から一ヶ月間にわたって開催されるこの"citephilo2000"は、あるテーマに基づいてヨーロッパ各地から哲学者・思想家を招くシリーズの4回目に当たります。

 今回の共通テーマは≪抵抗するとは?≫ですが、開始早々御大K.-O. アーペルが招かれている(今回の最重点国がドイツだからだそうですが)ことからも分かるとおり、ほとんど無限に幅広くこのテーマは解釈されているようです。

 また、fnacが絡んでいることからも推察されるとおり、結局のところ単なる思想書販売促進のための大規模なブックフェアではないのかという拭い去りがたい疑念もないではないのですが、いずれにしても興味深い試みであることに変わりはないので、以下にその日程等の一部を抜粋しておきます(より詳細に知りたいという方は、HPをご覧下さい。www.citephilo.com)。

11月10日(金) 15時30分- ≪哲学に抵抗するもの≫(アラン・バディウ+イザベル・スタンジェール+クリスチャン・ゴダン)   最後の人物は、最近、『全体性』という著書を出したクレルモン=フェラン大学の助教授です。ちなみに、スタンジェールの近作『私がメディアであることを覚えておきなさい』の試訳の一部を近々このMLで読んでもらおうかと考えています。

 18時- ≪エレーヌをすべての女性のうちに見ること、ホメロスからラカンへ≫   (バルバラ・カッサン+モーリス・マティウ+バディウ)

11月15日(水) 12時- ≪市民権≫(バリバール)

 17時- ≪技術と時間≫(ベルナール・スティーグレール+ジャン=ミシェル・サランスキー) 「技術の哲学的・科学認識論的・政治的諸争点を考えることはなお可能か」を論ずる。前者は、ed.Galileeから講演タイトルと同名の著書二冊と『テレビのエコー断層撮影法』と題したデリダとの共著(というよりロング・インタヴュー)を出しているコンピエーニュ工科大学の哲学教授。後者は、元リール第三大学教授、現在パリ第10大学(ナンテール)哲学教授で、近著に『意味の時間』。

11月17日(金) ≪革命の欲望≫(J.-L. ナンシー)

11月24日(金) 15時- ≪道徳感覚、道徳哲学の歴史≫(ローラン・ジャフロ+アラン・プティ)   「道徳感覚?この観念はモラリストたちのキマイラにすぎないのではないのか?18世紀の道徳哲学とそれを駆り立てていた諸論争の歴史を再構成する」。前者はパリ第1大学(ソルボンヌ=パンテオン)助教授。後者は、ブレーズ・パスカル クレルモン第2大学助教授。  

 19時30分- 「ニーチェ、第五の福音書」(ピーター・スローターダイク+マルク・クレポン+マルク・ド・ローネー)

11月25日(土) 16時- ≪イデオロギーの亡霊たち≫(スラヴォイ・ジジェク)

 16時30分- ≪J.-P. サルトルの出口なし≫(アガート・アレクシス+フランソワ・フリマ+ミシェル・コンタ)

11月27日(月) ≪ロバを称えて、あるいはジョルダーノ・ブルーノの燃え尽きた(火刑に処せられた=激情に駆られた)人生≫(アントネッラ・デル・プレーテ+ピエール・マニャール)前者はピサ大学教授で、著書に『ブルーノ、無限、そして諸世界』。後者はパリ第4大学名誉教授。一昨年来あたりから、フランスでもブルーノの全集が対訳版の形で刊行され始めています。日本でも全集と銘打たれたもののうち一、二冊刊行されたはずですが、その後どうなってしまったのでしょう。

11月28日(火) ≪パウル・ツェランをめぐって: 翻訳、解釈、思考≫(J.-P.ルフェーブル+ステファーヌ・モーゼス)

12月5日(火) ≪東欧で崩壊したのは何か≫(ダニエル・ベンサイード+リュシアン・セーヴ)

Friday, June 02, 2000

野村修とRutebeuf (k00472)

 rkさん、「場所」の違いは最初から意識していましたから、大丈夫です。ランボーの話、私も大笑いしてしまいました。mgさん同様、「オアシス」を得た思いです。それにしても、卒論諮問で「ランボー、グラン・ポエット・・・」と言ったきり、後は沈黙したという秀雄に比べれば、お父さんはユカイツーカイ、向かうところ敵なしですね。私もフランスでは、「奴は言葉はできないが、滅法面白い」と言われる奴になりたいものです(誰ですか、無理無理、と言っているのは)。

 isさん、お久しぶりです。H.L.Mencken とかいうおっさんは、"There are nodull subjects. There are only dull writers."と嫌なことを言ったようですが、laisse tomberです。

1)野村修
 hfさんと言えば、確か最初の出会いは、人格に問題なしとは言い難い某教官のベンヤミンは「複製技術時代の芸術」の演習であったかと思うのですが(後略)。

 おそらくあの人のことか(笑)と思いますが、いやあ、私は、ysさんから聞いた「目を覚ませ!!」の話が未だに忘れられず、ykさんと事あるごとに肴にしている次第です(そう言えば、ykさんはこのkの隠れた愛読者となりつつあるようです)。「目を覚ませ!!」という彼の科白は、土井たかこの「駄目なものは駄目なんです」と同じくらい気に入っていて、とりわけ(rkさんが思い出されたような)大学にまつわるくさぐさのおりには心の中でつぶやいたり叫んだりしています。好きですねえ、ああいう「人格に問題なしとは言い難い」人(笑)。

 ちなみに京大の教養ドイツ語人脈って個性的な人が多かったんだなとつくづく感じさせられますね。野村修の著作集か翻訳全集なんかそのうち出るのかもしれませんが(彼が1993年に編んだ『ドイツの詩を読む』を最近愛読しています)、池田浩士にしても我が道を行っているし。最後まで「ぼく」で通した野村修の一徹は、おおらかで寛容でありながら、批判的なスタンスを失わない、まさに京大っぽい人であったと私は思っています。おおらかさはどうか知りませんが、似たような職人的一徹さでもって端倪すべからざるプロの仕事を成し遂げた人として、東大の教養フランス語には阿部良雄がいます。


2)Rutebeuf (リュットブフ)
 さて、ダキアのボエティウスとは、早々にさようならをするつもりだったのですが、いまだに付き合いなしとはいえません。(『砂袋』は見ていただけたでしょうか)モノグラフィーはやるまい、と誓ったはずでありながら、博論は無難に彼における諸学問の分割と13世紀末の大学制度といったテーマになりそうな。(この企画書、もとい申請書を今週中にださなければいけないのです)いまだに一方でキリスト教が、他方で哲学の、時代を横断した本質を冬の時代にその唯一の希望のごとくに想定する旧制高校的哲学主義が場所を占めているところで、大学制度の問題に踏み込むことはできれば避けて、言語学の話だけをしていたいと、旧ソ連時代に、言語学を選択するような気分でいたのですが。

 12世紀についてはすでに「12世紀ルネサンス」論争があり、「暗黒の中世」という先入観からの一定程度の名誉回復がなされていると言っていいのでしょうが、13世紀についてはどうなのでしょう。「13世紀末の大学制度」で思い出すのは、フランス文学が中世哲学史ないし政治史・教会史とすれ違う領域を駆け抜けたRutebeufです。

 isさんには釈迦に説法ですが、13世紀にも大学紛争(La Querelle universitaire)がありました。 そもそもは郊外で「清貧の思想」を実践していたはずの托鉢修道会mendiants(寄進に頼らず物乞いをするところが売り)が、1215年のベネディクト会を皮切りに、フランシスコ会(元々は物静か)、ドミニコ会(元々、戦闘的説教者集団)と次々にパリの街中へ進出してきたのがすべての始まりでした。

 彼らは修道院内で神学を教えられるようにパリ大学神学部から承認を得、後にはかの神学部の試験を受けられるようにもなりました。要は、部分的にパリ大学の一部となったわけです。こう書くと、居丈高な権威的大学側とこじんまりとした私的団体という図式を思い浮かべられそうですが、事情はまったく逆で、托鉢修道会は「ローマ教皇直属」(聖職禄をもらっている。最初に「はず」と書いたのはそのため)を笠に着た興福寺の僧兵のような奴らなので、大学側はフランス国王と協力関係を気づきつつも容易には拒めないわけなのです。

 さてしかし、授業料を取らなかったこと、授業そのものが魅力的であったことなどから急速に人気が高まり、大学側が警戒感を高めます。こうして1250年代には神学部内部にmaitres reguliers(強いて訳せば修道会系教授)がドミニコ会系のMineurs(小さき兄弟達)とフランシスコ会系のPrecheurs(説教者たち) 各2名ずつ籍を持つまでに至っていたのですが、1252年2月、在俗教授maitresseculiersたち(大学側)が割り当てをそれぞれ一つとすることを決議し、大学紛争が勃発します。翌月何が原因かは分かりませんが、ソルボンヌがスト決議を行なったとき、mendiantsは従わず、決裂は決定的となります。このときドミニコ会系の有名教授だったのがSt. Bonaventure、フランシスコ会系の名物教授がSt. Thomasd'Aquin、そして迎え撃つソルボンヌ側の先頭にいたのが、Guillaume de Saint-Amour だったわけで、まさにそうそうたる顔ぶれがそろって大学紛争に首を突っ込んでいたのですね。

 13世紀フランス最大の詩人Rutebeufは、この紛争に在俗教授会側から介入し、修道会士たちを攻撃する激烈な論争詩を書くことでその詩人(Kritiker-Rhetoriker)としてのキャリアをスタートさせています。普通、リュトブフと言えば、15世紀のヴィヨン、ひいては19世紀のヴェルレーヌなどにまで続く、いわゆる「呪われた詩人たち」の嚆矢、というのが教科書的な位置づけでしょうが、読んでみると彼らとの違いばかりが目に付きます。

 最大の違いは「恋愛を歌わない」ということです。例えば、"Vivez si m'en croyez n'attendez a demain (生きよ、私を信じるならば、明日を頼まずに) / Cueillez des aujourd'hui les rosesde la vie (今日この日から摘むがいい、生命の薔薇を)"といった恋愛詩で有名な16世紀のロンサールとまったく異なるのは当然として、確かに無頼漢に違いないヴィヨンでさえも、花田の引用で仏文以外にも有名であろう"Mais ou sont lesneiges d'antan?(さあれ、去年(こぞ)の雪今いずこ)"のリフレインが印象的な「いにしえの美女たちのバラード」や「兜屋小町長恨歌」などにおいて数々の(くせはあるけれどもともかく)艶のある歌を残しているという事実とはまったく対照をなしています。

 彼が恋愛を歌うとしても、例えばこんな感じ。

Ancor plus fort : (さらにきっついことには)
Por doneir plus de reconfort (もっと喜ばしてまうだけやがな)
A cex qui me heent de mort, (わいのこと死ぬほど憎んでる奴らを)
Teil fame ai prise (あんな女もろうてもろた)
Que nuns fors moi n'aimme ne prise,  (わいのほかに誰も好きにならへん、もらいもせん女やで)
Et c'estoit povre et entreprise  (ほんでもあいつ貧乏で困っとったから)
Quant je la pris. (もろてしもたがな)
At ci mariage de pris, (こんなええ結婚したもんやから)
Qu'or sui povres et entrepris (今わいも貧乏で金に困ってんねん)
Ausi com ele ! (うちの奴と同じようにな)
Et si n'est pas jone ne bele : (まあ若うもないしべっぴんでもない)
Cinquante anz a en son escuele, (皿の中で(=手つかずのまんま)50年や)
C'est maigre et seche. (ガリガリにやせとんねんで)

 (最近、ちくま学芸文庫からバルザックの解説書を出した柏木という関西系Balzacienは、藤原書店から刊行中の≪人間喜劇セレクション≫の一つを関西弁で訳したが、関西弁訳ってなかなか難しいな。)

 というわけで、恋愛詩と呼ぶことはためらわれるが、敢えて恋愛詩と呼ぶとしても、関西系「とにかく、くさす。とにかく、ぼやく」恋愛詩であることはお分かりいただけるでしょう。

 この時代の文学(むろん韻文詩)で興味深いのは、自律した純粋な芸術ジャンルとして考えられていないどころか、そのような≪芸術≫概念自体が確立していない(文学も含め芸術は道徳的・宗教的修身に役立つ)こと、現代のヌーヴォー・ロマンのように「作者」を消去するしない以前に、自律した≪作者≫概念も≪作品≫概念も確立していない(往々にして作者不明、作品は写字生の写本を通して普及していく以上、必ずやヴァリアントを含みこみ、厳密な≪オリジナル≫という観念があったかどうかは相当疑わしい)ことです。

 リュトブフは、様々な人の委嘱を受けて書いた。上に挙げた結婚生活をぼやく詩などを論争詩から区別し、≪真の個人的感情≫を歌い上げた"Poesie personelle"と呼んで、文学において個人生活を歌うことの始まり、ひいては「文学的主体」(Michel Zink)の創出と考える人たちがいますが、私はナンセンスだと思う。

 リュトブフはただのすぐれた≪芸人≫です。最初は大学紛争に介入して河内音頭を歌う。ネタに困ると十字軍を題に貴族・フランス宮廷から金をせびり、豪華な宗教劇で教会や町の名士と親交を結ぶ。辛口の芸風で名をあげると、今度は内容ではなく、その芸風に顧客がついてくる。そこで自分をネタに新境地を開発、とそういう感じでしょう。それが、真か偽か、「文学的主体」などとはいかにも大仰、いかにも野暮。芸人なら誰しも、受けるためなら、売れるためなら自分の生活・感じたことを面白おかしく話すでしょう。

 むしろjongleur(今で言うジャグラー、大道芸人、ピーター・フランクルではないけど)とのつながりを強調すべきなので、この意味での(芸人的)詩人はいつの時代にもいるでしょう(したがって、むしろBoris Vianなどと比較されるべきなのかもしれない)。ただ、その詩形式が、彼自身の卑下にもかかわらず、ずば抜けて洗練されていた。などなど。以下は作品に即して見ていかないといけないので割愛させていただきます。13世紀にこんな奴もいたということで何かのご参考になればいいのですが。

 というわけで、野村修とリュトブフ、似ていないようで似ている、似ているようで似ていない二人でした。

p.s.kさん、てどういう方ですか(もしすでに私と知り合いでしたらごめんなさい)。
p.s.2 t君って仏文の?
p.s.3 livedoor、今のところほぼ問題ありません(2度ダウンしましたが)。良い感じです。といっても私はインターネットはほとんど使わないので、そちらについては分かりかねますが。
p.s.4 oさんもですが、nyさんは?休学したという噂を小耳にはさみましたが・・・

Wednesday, May 31, 2000

En écrivant, en m'excusant (k00463)

 rkさんへ

 うかつな言葉を口走り、付け加えていく言葉の一つ一つがまたうかつ、というまるで火だるま首相のような有様で気が滅入ってしまいますが、まあ自業自得なのでしょうがない。めげずにとにかく書いて書いて、ただされるべきはただされていく、という形でいくしかない。グラックは、En lisant, en écrivantですが、私は当分 En écrivant, en m'excusantないしEn écrivant, en étant rectifiéです。ともあれ、 「喋る人」であれ「もの書く人」であれ、きちんと自分の言いたいこと、言いたかったことを最後まで伝えようとしなくては。

1)
そういうお世辞ないし反語はどうか勘弁してください。

 私は、「浅田的図式」が産み出された瞬間においてその新しさを評価しなければならないのではないか、という問いを提起したわけですが、ysさんはそれに対して、その図式の先に「アポリア」を考え抜くことが重要であり、そのような行為だけが思想と呼ばれるに相応しいと言われた。

 この議論の延長上で、私は、幾つかのエッセイや対談においては、浅田的チャート化はそのような地点に到達しているのではないか、と答えましたが、そのとき念頭にあったのは、ゴダールの「新ドイツ零年」についてのエッセイやジュネあるいはコクトーについての対談でした。

 そこで、とりわけ20世紀フランス文学の領域の対談・エッセイが提起する図式に関して、「20世紀について一通り知っていると想定される仏文学者」としてrkさんに尋ねてみたい、と言ったわけです(「知っている」と想定されなければ、尋ねられないので)。

 したがって「一読者として読む」と言われると、≪批評家―研究者≫という単純な対立図式(これについては後で触れます)から逃れて読むという宣言でしょうから、それはそれでまったく異論はないわけなのですけれども、今言った文脈からは逸れるように思います。

 うかつな言葉を使ってしまったかもしれませんが、言いたかったのは以上のようなことです。「気鋭の」を「20世紀フランス文学について常識を備えていると判断される」に置き換えれば、「お世辞ないし反語」ではなくなるでしょうか。いずれにせよrkさんの見解で結構なのですが。


2)「知的筋力の硬直を自分が今いる場所のせいにしてしまってよいのかな、と思ってしまいました」。うーん、そう読まれてしまってもしょうがないかもしれません。
 東京にいると脳溢血になりそうで…もうすでに脳硬化が加速している次第で、知的筋力を増強するにはまだしばらく時間がかかりそうです。

と書いたとき、「脳溢血」というのは、授業などで基本事項(知識、発表作法など)を徹底するべく(院生の間で共有されるべく)、せわしなく動いていて(授業に介入し、読書会を組織し)倒れそうということ、けれど、基本確認にかまけて肝心の自分の頭で考えることがお留守になっているというのが「脳硬化」というつもりだったのです。
したり顔の専門研究者か、浅田・柄谷・蓮見を論じる知的批評家か、その二者選択しかないとしてしまうところがすでにある種、硬直してたのでは?

次のような言葉は≪研究者―批評家≫の二項対立ではなく、≪「身過ぎ世過ぎに汲々として情熱を失っている人=脳硬化の人」―「うるさく、元気な人」≫のつもりだったのですが、確かに不用意であったかもしれません。
 面白そうな人はいますか。少なくとも「うるさい」「元気な」人はいますか。いつしか、そういうタイプを忌み嫌い、避け、かつては自分もそうであった過去を努めて隠蔽・抑圧しようとし、したり顔の専門研究者として身過ぎ世過ぎしていくようになるのだと違和感なく納得してしまっている自分――常に再び「蛮勇」を!浅田さんを論じようとするのは、そのような意図の下にです。

しかし、私が≪研究者―批評家≫という対立で考えていないことは、次の言葉の後半部から読み取っていただけるのではないでしょうか。

 東京は≪ディドロ読み≫以外はつらいものがあるという状況です。各専門内で興味深いことをやっている人はいますが、そしてそれで良いといえば良いのですが、「ある専門内で徹底的に面白い研究は、必ずや他の分野の見識ある人の目に止まらないはずはない」などと言ってしまうと素朴にすぎるでしょうか。
「東京にいると脳溢血」と「東京は…つらいものがある」という表現を結ぶと、rkさんから受けたようなお叱りがでてくるのはよく分かります。けれど、「つらいものがある」というのはより突っ込んで言えば、少なからぬ人々がごく限られた領域から出る努力をせず、そのために授業や発表などで議論の共通の枠組みが一向に形成されない、また視野の狭さゆえに、その人自身のパースペクティヴが広がりをもったものにならないということであり、そのような潮流に抗するために私は私なりに色々試み、しかしうまくいかないからこそ「つらい」わけです。

 一例だけ挙げれば、私は今年、デリダを餌に院生達にマルクスを読ませようと企みました。 Spectres de Marxをテキストに、一方ではバリバールの『マルクスの哲学』、イーグルトンの『イデオロギーとは何か』などを用いて大雑把にマルクス主義の歴史的文脈をおさえつつ、他方で『共産党宣言』『ドイツ・イデオロギー』『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』『資本論』(第1巻・第1篇)などで実際にマルクスを読んでいくという形で、途中で三宅芳夫さん(近頃、岩波から『知識人と社会』を出された)を呼んでマルクス主義とサルトルについてフランス文学と交錯させつつ話してもらうなどしながら、一応ハードにやったわけです。≪現代思想≫に興味があった人もなかった人もいましたが、ちゃんと読むというのはこういう形で読むということだ、と実践的に示したかったのです。

 しかし、以上のような成果をあげつつ、この会は4月で空中分解しました。私はこういう文脈の上で「つらい」と言っているので、決して、何もせずに「あの人はいい、他の奴は駄目だ」などと高みから物を言っているわけではありません。「つらい」というのは、繰り返しますが、一緒に共通認識の地盤を広げていきたい、「必ずや他の分野の見識ある人の目に止まらないはずはない」「ある専門内で徹底的に面白い研究」を増やしたい、ということです。

 いずれにしても、自分の硬直を状況のせい、人のせいにしてはいけない。場所が人を縛り、染め、育てるとはいっても、またそのような「場所」のあり方に敏感であるべきだと考えて、私が実際に「介入intervention」しているとしても、どのような場所を選ぶか、そしてそこでどのように振舞うかは最終的にはその人の責任においてなされるほかはないのですからね。それに、面と向かって批判する以外は「批判」の名に値しないのであって、ここでいうのはお門違いでしたね。また場所を変えることで、頭を切り替えるきっかけを掴みたいものです。

 また長くなってしまいました。火だるまの火が少しでも鎮火されればよいのですが。ではまた。

 p.s.場所の力、場所の記憶が持つ力。私が行くリールの近郊の町Charleville-Mézièresは、ランボーが生まれた町です。できれば近いうちに「田舎者ランボー」(井上究一郎)について考えてみたいと思います。

Sunday, May 28, 2000

Re: novus venit amicus antiquus (k00452)

 皆さんからお返事を頂いて嬉しい限りです(以下は、別にどれも特に強く私信的というわけではないので、どれでもご自由にお読みください)。

1) rkさん、本当にお久しぶりです。何年ぶりでしょう?こうして直接言葉を交わすのは。3、4年ぶりじゃないですか?私も何とか生きてます。東京にいると脳溢血になりそうで…もうすでに脳硬化が加速している次第で、知的筋力を増強するにはまだしばらく時間がかかりそうです。

 京都はどうですか(パリ・コネクションでもいいですが)。面白そうな人はいますか。少なくとも「うるさい」「元気な」人はいますか。いつしか、そういうタイプを忌み嫌い、避け、かつては自分もそうであった過去を努めて隠蔽・抑圧しようとし、したり顔の専門研究者として身過ぎ世過ぎしていくようになるのだと違和感なく納得してしまっている自分――常に再び「蛮勇」を!浅田さんを論じようとするのは、そのような意図の下にです。

 他の方々にも知っていただきたいのですが、東京は≪ディドロ読み≫以外はつらいものがあるという状況です。各専門内で興味深いことをやっている人はいますが、そしてそれで良いといえば良いのですが、「ある専門内で徹底的に面白い研究は、必ずや他の分野の見識ある人の目に止まらないはずはない」などと言ってしまうと素朴にすぎるでしょうか。

 ベルナノスについても(邦訳著作集の中の「田舎司祭」と「新ムーシェット物語」を読んだ程度ですが、モーリヤックとの戦略の相違など20C仏文学者として浅薄な関心を寄せている次第です)、ブレッソンについても(去年、東京国際映画祭で、ドヴジェンコ

(余談の余談ですが、笑えました。「社会主義リアリズム」と言われながら、馬と人間が話すとか、地中から奇怪な風貌の老魔術師(?)が這い出てくるとか、「荒唐無稽」な表現が「ほとんど幻視者の域に達している」「リアリズムとは程遠い異常な世界」というコーディネーター市山尚三の見直し要求は少なくとも日本においては正当ではないか)

とともにレトロスペクティヴが組まれ、最初期の「公共問題」から「ラルジャン」まで、全作品が上映されたのです)語ってみたいことはあるのですが、今日はこの後、メインイベントが(笑)控えているので、またの機会にしたいと思います。

 しかし、ysさんとの議論とも関わることなので、あらかじめ厚かましくもrkさんにお願いしていいとすれば、今度出た「20世紀文化の臨界」の中の、バタイユ、クロソウスキー、ジュネ、そしてとりわけコクトーについての対談をお読みになって、気鋭の仏文学者からの忌憚なき意見を聞かせていただければと思います(年代を追うにつれて変化してきている浅田さんの語り方についての「テクスト分析」も、できれば)。

2) mgさん、カントについての基本的な文献についてはこちらからお尋ねしようと思っていた矢先なので、いいタイミングでした(カッシーラーの『啓蒙主義の哲学』は中野好之訳(紀伊国屋でしたよね?)で昔ざっと読みました。ヒンスケ、トネーリについては、これ一冊だけと言うなら何ですか?また、ブラントについてはもう少し詳しく教えてくれるとありがたいです。コンパクトに≪要約≫して浅田的に≪紹介≫してくれるとさらに助かります(笑)が)。

 渋谷さんについて言えば、教師としてはあれで十分よいと思います。ドイツ語的に解釈の難しい個所は、むしろ一緒にゲーテを読んでいるドイツ文学の先生に聞くことにしているのですが、最初に質問したときは笑えました。意地悪さからと言うよりも、むしろ慎重さからカントの名を出すことなく自分で書き写した原文を見せて質問したのです。「何これ?変な文だよねえ」と散々言われ、当然のように「本当に原文これなの?」と私のトランスクリプションを疑われ、それでも「18世紀の文章だと現代と少し違うということはありますか」など脇から攻めて食い下がり、しかしやはり要領を得ないので、最後に実はカントなのですと明かすと、ああそれはもうしょうがない、あれは悪文の極みだから、と。私は原文を比較したわけではないのですが、後年に行くに従って錯乱的で支離滅裂な文体になると言うのは本当ですか。

3)さて(笑)、ysさん。浅田さんについてきちんと考えようとしている私の言葉に耳を傾け、言うべきことを言ってくださったことについて、まずお礼を言わせてください。これはmtさんにも言ったことですが、私は建設的な批判は大歓迎です。ですから、ysさんも私と同じように私の再度の問いかけに辛抱強く耳を傾けてくださればよいが、と切に願う次第です。

 いきなり真面目な調子になりますが――そして、かつて武田さんが愛聴された『ビジネス英会話』では、昨日、Oscar Wildeが"Seriousness is the only refuge of the shallow."と言っておりましたが(笑)――、「要は、浅田彰の後で、いかに自分たちが生産的でありうるか、だ」という点で我々はまったく意見の一致を見ているわけですよね。そこで、ysさんは端的に浅田の影響を追認しているだけではもはやまったく不十分で、決定的に乗り越えられなければならないというわけですし、私のほうは、乗り越えるためにもまずは、一体我々はどのような影響を被ったのか、浅田彰とは我々にとって何であったのか、を素朴に、しかし出来うる限りより精密に問い直そうというところから出発しようとしたわけです。

 したがって私の意図は単なる業績の追認や影響の確認ではなく、「批判」にあるわけで、ここでもまたysさんと別段異なる主張を唱えているわけではないと思います。 けれども、「殺す」なら徹底的に、というのがまさに私の言っていたことなのですが、「殺す」方法には色々あると思うのです。可能性の中心を描くことで昇天させる、ほめごろすほうが生産的だと私は思っているのです。

 では、具体的には何が問題か。敢えて反論の出やすいようにテーゼ風にしてみると、

1)中立的な要約や客観的なまとめというものはない。

 かつてアルチュセールは「罪のない読み方はない」と言ったが、罪のないまとめや、罪のない要約もまたないだろう。ゴダールの『映画史』風に言えば、客観的で中立公正な「正しい」要約や「正しい」まとめがあるわけでなく、ただ色々な面白かったりつまらなかったりする要約やまとめがある「だけ」だ。そして、面白い要約、興味深いまとめとは、それだけですでに優れて自律的な何物かではなかろうか。

 私はこれとまったく同じことが、「淀長」についても言えると思う。「淀長」は単に映画の筋を話しているだけだと言う人がいる。とんでもない誤解だと思う。映画の筋を面白おかしく聴かせるという、ただそれだけのことがどれほど稀有なことか。映画の筋や映画の歴史を語ってみせて、それが面白いとしたら、そのことだけで十分に希少価値なのである。それは批評でない、単なるパフォーマンスだ、芸能だと言われるかもしれない。

 では、批評とは何なのだろう、あるいは「新しい思想」だけが考え抜くことのできる「問題の本質」とは?私は別に狭く限定する必要はないと思うし、今さら東浩紀のようにジャーナリズムと大学的言説の垣根をどうこうしようなどと苦闘する必要もないと思う。さしあたり知的に興味深い言説はすべて批評だと考えていけない理由はないように思われるからだ。私は、淀川長治の言説も、そして浅田的チャート化も批評的言語の特異な一形態だと考えている。

 問題は、繰り返すが、「浅田的な整理に終始して、ちっとも生産的な議論に発展していかない」というヴィジョンそのものにあると思う。それは整理するということ、「他者の思想を受容」した上でそれをチャート化することがすでに「生産的」な「フィクション」であり、その意味で「新しい思想」だからだ。浅田批判は彼の図式の「当たり前さ」を強調するが、それは彼の図式が登場して以降の視点から見たアナクロニスムだ。「図式」が生み出された瞬間の、情報の圧縮・批評的飛躍の態度が見落とされてしまっているのだ(付け加えて言えば、「知識の断片」を物珍しげに並べただけでは単に退屈で面白くないわけで、浅田的チャート化はそういったものではないのではないか)。

 蓮実重彦は、柄谷とともに、「現代日本の言説空間」(1986)という未だに読み直されるべき対談で、こう言っている(『饗宴』Ⅰ、日本文芸社、1990)。
 チャートができるのは、浅田彰ひとりなんですよ。しかも浅田のチャートは比喩なんですよね。読むべきは、チャート化された内容が正しい要約かどうかではなく、そのメタファー化の代償として彼が引き受けているフィクションのほうです。

そして、浅田的チャート化は自分の言葉で言えば形式化だと答える柄谷自身に、あなたも同様に批評的かつ倫理的な独自の「背負い方」があると蓮実は言う。
 しかし、その背負い方こそ誰も真似ないわけね。これはもう、それこそ物語になってしまっているからかもしれないけど、かりに現象学的還元ということをとってみると、本当ならばフッサールなんてのは単なる哲学者になってしまうはずなのに、それを哲学史の系列の中に置かないで、さっき言った意味での批評の実践者にするために、柄谷さん自身が、ある種の還元を行なっているわけですよね。それは柄谷さんにしかできない。 つまり、それを最初にやろうと思った人にしかできないはずなんだけれども、今度は誰もが、還元なんてのは実は簡単なことなんだぞ、という形で、フッサールを読んでしまう。

 私はこういう現象は、浅田的チャート化についてもまったく当てはまると思う。そして、そのような受容のされ方が言説の内容・形式・その他とはまったく関係がないとは言わないが、貧しい受容状況のすべてに責任があるわけではないこともまた当然だろう。浅田が引き受けたもの、本当はそれに惹かれて読みはじめたはずのある「感じ」が、読者の中で消去されてしまう。しかし、問題の立て方を変えて、この三人に共通する、何でもかんでも象徴にして、比喩で語ってしまうのは問題ではないか、とするなら、私の答えもまた変わってくることになるだろう。


2)固有名を比喩的・寓話的・寓意的・象徴的に用いるのは、圧縮して語る際の一手段である。

 少なくとも私が知っている限られた分野について、私はその量的な豊富さ以上に、浅田による配置の的確さにまず目を奪われる。「眩惑的な効果」は、固有名の的確な配置の積み重ねによって生じる「いちいちもっともだ」という賛意に最も多くを負っているわけで、このことはディティールの「コラージュ」もまたやはり的確な積み重ねでない限り説得的ではありえないということと対応している。確かに固有名を一つ投げ出して説明を省略しようとすることは怠惰以外の何物でもない。しかし、浅田の「固有名」は常にconstellationを形成し、その周りに「細部」という星雲を漂わせている

(私は中世の修辞学は門外漢ですが、これはad nominatioという奴ではないですか、isさん)。

このとき、星座は一つの(あるいはいくつかの互いに関係した)物語を持つ(むろん所違えば星座も変わる。物語も変わる。高橋悠治の批判については、疲れてきたので次回に)。星座は比喩となる。
 ある文脈の中で機能しえなくなっていったものを活性化するために、新たな文脈をフィクションとして提起し、しかも、その文脈の正当性を保証するものがその文脈の中に見当たらないことを怖れつつ、それを自分で引き受けるという姿勢が、比喩の喚起性を高めるんです。(・・・)柄谷さんの言う「可能性の中心」という概念そのものも一つの比喩なんだけど、その可能性の中心で読むのがとても巧みな人は、僕はドゥルーズだと思うんです。彼の取り上げた作家は、ニーチェにしても、ベルクソンにしても、およそ誰もが扱っている人です。プルーストを論じたりもしているんだけれど、そのつど彼の提起するフィクションの中で、常識と思われていた作家が、思っても見ない刺激を及ぼしている。

最良の場合の浅田的チャート化は、柄谷・ドゥルーズ的に可能性の中心に一気に飛び込む。d'embleeということが批評的でないという批判は十分に成り立つが、私は1)の答えを繰り返すだろう。


3)「雄弁術」「弁論術」はそもそもきわめて西欧的なものである。

 「座談会」が日本固有のものであるのはいいとして、浅田は本質的にRhetorikerであると思う(ここでひょっとして大きな認識のずれが誤解の原因になっているかもしれないと思い至った。私が念頭に置いているのは、浅田がひとりで話した「講演」、ないしイニシアティヴをとって話した「対談」のこと、つまり最近本にまとめられたものであって、「批評空間」などで交通整理役に回っているものではありません、念のため)。したがって本質的にKritikerであると思う。


4)『エクリ』についてはまた機会を改めて・・・ 私もラカンにはうるさい人間として(というか、何にでもうるさい(笑)気もするけど)またいつの日にか・・・

 なんか最後はいいかげんになってしまったような気もしますが、一応言いたいことは言えたかな。失礼なことを言っていないといいけれど。ではまた、反論・批判・感想・所見・・・お待ちしております。ysさん、最後にもう一度、本当にありがとうございます。

p.s.この寝不足状態で、コンポージアム2000に行ってきます。mtさん、某超有名英語塾のgさんが毎年そこで通訳やってて(去年はポール・メイエの)、去年のファイナリスト兼優勝者の某氏の友人であるkkさん(京都工繊)の友人だってご存知でした?

 では皆さん、乱筆乱文失礼。

Saturday, May 27, 2000

Re: novus venit amicus anti (k00441)

 どうも。hfです。ラテン語はよく分かりませんが、amicus antiquusが最後のmtさんの「ログ」(用法は正しいですか)では、amicus antiとなっており、穏やかならざる表現のような気もします(嘘です)。
isさん、ysさん、本当にお久しぶりです。ご無沙汰しておりました。懐かしい顔ぶれに、京都時代の「感じ」が一挙に押し寄せてきて、戸惑ってしまいます。他にも参加者はいらっしゃるのですか。つい先日、ssさんやmgさんからもメールを頂いたので、もしみなさんがよろしければ、そしてまだ未加入であれば、教えてあげたいと思うのですが。

 私の近況としては、この夏から、「フランスの佐世保」リールへ行きます。かつては炭鉱町として栄え、今は荒廃して青少年の暴力・麻薬が問題となっている町、トヨタの進出が最近の唯一の明るい話題らしい町です。指導教官は、写真を見て気のいいオヤジではないかと想像して決めたPierre Machereyです。筆跡を見る限り、予想通りかわいいオヤジです。彼のもとで、≪「熱狂」概念と「国連」構想から見たベルクソンの政治哲学(カントとの比較を通して)≫といった超適当なでっち上げの作り話をかますつもりなのですが、やはりそれ以前に身の程を知って、まずはフランス語の勉強を、ということになるでしょう。

 isさんも近況を教えてください。私の頭の中では「ダキアのボエティウス」という言葉が謎めいて鳴り響いているままで、isさんについての情報が更新されていないのです。

 ysさんは、バリバールについて何かご存知ですか。パリ10で教えているそうですが。また、フーコーの博士号請求副論文「カント『人間学』の生成と構造」のコピーを手に入れることは可能でしょうか。もし手に入れていただけるなら、電子化してお礼をしたいのですが(最近、仏文に高性能のスキャナーと読み取りソフトが入ったので)。

 それにしても、入る門を間違っている(やはり三批判だろう)と言われるかもしれませんが、カントの『人間学』はかなり面白いですね。ゲーテの『ファウスト』と共に原書講読の授業に顔を出し、カッシーラーの"Rousseau, Kant, Goethe"(邦訳『18世紀の精神』)を併読しつつ、妄想にふける毎日です。まったくいつまでたっても青っぽい学部生気分です。

A bientot !

p.s. 「ユリイカ」に掲載された対談を集めた『20世紀文化の臨界』というこれまたさえない題名の浅田さんの本が青土社から出ました。予測どおり、浅田さん自身が明確な意図をもって、まとめて一挙に出すことであるインパクトを狙っているようです。

poubellicationについてのラカンの引用で序文を始めるなど今までなら考えられなかった(少なくとも私には)ことですが、「『ファミリー・レストラン』の貧しい定食」のような「普通の書き下ろし」に比べれば、「『書かれたもの』(エクリ)として展開しないのは怠惰だという批判は甘受」するとして、「書き下ろし数冊分のアイディアが含まれている」対談集は、「少なくとも豪華なレストランのごみ箱のようなようなものではあるだろう」という言葉に、ようやく本音を公言したなという感じがします。

浅田的対談を思想なり批評の発信の仕方そのものの変革と捉える、なんて大げさすぎて滑稽だという感じを持つ方がおられることは容易に予想がつきますが、東浩紀は一言も言及しないどころか、おそらくは本人の頭の中にはその影も形もないであろうにもかかわらず、今月号の『大航海』での三浦雅士との対談でデリダの近年の講演を出版するスタイルを「超越論的なもの」(こんな大仰な言葉を使う必要はないと思いますが)の新たな発信の仕方と位置付け、ヘーゲル的=大学的ディスクールの終焉を主張していました(が、それを宮台的社会学者と同列に論じて、両者に希望を見るというのは、現実的にはありうるとは思いますが、私なら言わないことです。

p.s.2.私はメイリングリストという奴を初めてやるのですが、こんな長いのは反則というか、常識外れというか、迷惑なのでしょうか。皆さん短いようですが。