昨年出たヴィエイヤール=バロン編の論集(Bergson. La vie et l'action)に私の仕事がまとめて参照されていたり、先月出た『二源泉』校訂版に私の論文が引用されていたりというのは、何にもまして嬉しいことだ。むろんこれは出発点にすぎない。引用されるだけでは意味がないことは十分承知している。しかし、仕事が知られないことにはそもそも土俵に上がれない。それだけはたしかだ。
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UTCPのサイトに連載されている小林さんのブログより一部抜粋。私がこの考えに全面的に賛同していることは言うまでもない。他の考えは必ずしも同じではないが…。
《どうやら、UTCPコレクションのわたしのもの(第4章)を読んでいてくれたようで、ほら、やはりこうして外国語で読める論集の形にしてあれば読んでもらえるのだなあ、ととても嬉しかった。
もちろん海外の出版社から一冊まとまった形で出版されるのがいいにきまっているが、その前の段階で、外国語版個人論集をつくっておくことは、外国の研究者と対等につきあおうとする以上は絶対に必要。
この方針のもと、これまで、jmさん、ytさん、tnさん、ttさん[文脈と関係のない名前なので省略]、それにわたしのものが実現している。今年度もなんとか2冊くらいはつくりたいもの。しかし10本くらいの外国語論文を揃えることができる人はそんなには多くないのが現状。人文科学の国際化とは端的にここにかかっている。それ以外にはない。》
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パリ行きの飛行機の中でynさんと長時間話した中で一番心に残っているのは、次の言葉。《満足いくものが書けたとき、そこには風景が見える。自分の書いたものの中に風景が見えるか、見えるとすればそれはどんな風景なのだろうか》。彼の答えは、《誰かに手を差し出している風景かな。「握手をしよう」って》というものだった。これはとても彼らしい答えだ。以来何となく考えてみた。「私は?」
たぶん旅立つ風景だ。空港や駅、大学でもいい。人が慌ただしく行き交う場。そこに独りで佇み、どこかへ出発するのを待っている。若干の期待と若干の寂寥。遠くへ、さらに遠くへ――私の論文を読む人がどう思うかは分からないが、少なくともそれが私が仕事をしているときに根底にある風景であるような気がする。
ドタバタの慌ただしい出発(今回のパリからの帰りもまた!)についてはもっとコミカルにも書けるし、その方が私らしい気もするけれど(笑)。
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