体調はすこぶる悪いが、来年のベルクソン・シンポに向けて第一段階の準備を始める。まずは海外からの招聘者との下交渉である。
どういう招聘をすべきか
これは私が若手だから可能なことかもしれないが、有名人というだけの招聘など絶対にしない。それが悪いとばかりは言わないし、健全な反応だとは思うけれど。お仲間招聘というのもしない。世界中に友人はたくさんいるが、いくら好人物であっても、研究者として面白くなければ呼ばない。私がこれまで招聘にかかわった人物はどれも面白い人物ばかりである。「でも小粒だったでしょ」という人は私のエッセイ「観客でも批評家でもなく」を読み直すべし。
戦略的な呼び方をしなければならない。これまでの招聘のほとんどは実に「長期的視点」「継続的観点」というものを欠いたものであったと言わざるを得ない。それは研究において実は対等な姿勢で向かい合えていなかったということを示しているのではないか。
科研では長期的・継続的なプロジェクトが可能だが、この点多く誤解されているのが、「自分たちにとってだけ」長期的・継続的であってもさしたる意味はない、ということである。呼ばれる相手(この場合は特に海外の研究者)にも継続性を感じさせ、自分たちがそのプロジェクトの一端を担っているのだという認識を共有させることが何にもまして重要である。そのためには英・仏・独語での成果の刊行がきわめて重要だ。
招聘とは何か――結合術と地政学
三年間のベルクソン・シンポで言えば、少なくともベルクソン研究で重要な人物、さらに『創造的進化』について面白いことを話せる人物というのがまず第一の選択基準である。なぜならそれが科研プロジェクトの題目だからだ。彼らを継続的に呼ぶ。そしてActesをフランス語で出す。
(こういったことはもちろん一人ではできない。私のような若手研究者の場合、業界の大先輩・先輩方のお力をお借りしてようやく何がしかの成果に辿りつけるといった次第であり、とりわけロジスティックに関して私は完全に無力である。しかし、このようなチャンスをただ待っているだけでは駄目で、自ら積極的にチャンスメークして行かなければ道は切り開けないということもまた事実である。それで時には誤解を受け、軋轢が生じるとしても…)
次に、国際的な広がりというものを考えなければいけない。哲学大国の人物ばかり呼ぶというのでは地政学的な視点に欠ける。哲学のマイナー国から呼ぶことによって未発掘の人物を掘り起こすという視点がなければならない。そのためには常にアンテナを研ぎ澄ましておかねばならない。この点、せっかく海外にいるのに鈍感な留学生が多すぎる。
第三に、年齢的な広がりも重要である。すでに名をなした大家ばかりでなく、気鋭の若手を積極的に登用する。留学生は、有名人の話を聞きに行くのもいいが、切磋琢磨しあえるような優秀な若手(外国人でも同国人でも)を見出し、その人によって自分が認められる(見出される)――もちろん知識のひけらかしoralではなく自分の仕事écritによって――ことがより重要だ。
最後に、日本のどこでシンポを行なうかということ。東京と京都ばかりでは地方のフランス哲学研究が一向に振興されない。たとえフランス語が分からない学生がほとんどでもいい、例えばたったひとり通りがかりの学生が興味を持ってくれさえすれば。今の「制度」では地方の学生には事実上、フランス語で哲学している現場を垣間見る可能性が閉ざされている。三日間やるのなら、一日だけ採算度外視の「先行投資」として地方で開催すべきだ、と年来言っているのだが、この点は未だに多数の同意を得ない…。
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