Sunday, December 14, 2008

大学はフランス哲学において己の場を欠いている――あるいはベルクソンの『礼儀正しさ』について(L'Université manque à sa place dans la philosophie française: ou de La Politesse de Bergson)

パリでの発表のタイトルは最終的にはこうなった。字数の関係上、UTCPのサイトにはレジュメの短いバージョンを載せてもらった(短いレジュメおよび全体の流れが読みたい方はそちらをどうぞ)。元々の長いバージョンをこちらに掲載する。



ドイツ哲学における大学論の伝統(カントからハイデガーを経てハーバマスまで)と顕著な対比をなすフランス哲学における大学論の不在(デカルトからベルクソンを経てドゥルーズまで)を取り上げて、その歴史的・構造的理由、そしてそれへの対処法自体をもフランス哲学の伝統のうちに探ることで、《制度》の問題を批判的に(つまりフランス哲学研究者である自分自身の問題として)取り上げようとした。フランス哲学についてのアカデミックな研究もジャーナリスティックな批評も山ほどあるが、アカデミックであると同時に批判的・介入的であろうとする研究はほとんどない。

まず確認しておくべきは、ドイツ哲学はそのほぼ全歴史において大学を軸として展開しているのに対し、フランス哲学は、伝統的に「大学」という制度の外側にいたということである。コレージュ・ド・フランスやEHESS、あるいはエコール・ノルマル・シュペリウールといった例外的な場の存在が織りなす高等教育の多孔質構造はフランス的な知の独創性を生み出す要因の一つであることは疑いえない(この構造的差異はまた、ドイツ哲学とフランス哲学の文体の差異を解き明かす一つの鍵でもあるだろう)。フランス哲学における大学論の不在はこうしてたやすく説明されるように思える。

しかし、大学を解体し中等教育を軸に再編したナポレオン体制を引き継ぎつつ、普仏戦争の敗北を受けてドイツモデルの移入(哲学の分野で言えば、本格的な講壇哲学化)を推進したフランス第三共和政において、大学に対する哲学者たちの伝統的な沈黙ないし侮蔑は根底的な変質を蒙る。もはや「哲学者」は、反大学的な在野の自由思想家にのみ与えられる称号ではない。哲学者の大部分は職業的哲学者となり、全面的に制度化された講壇哲学を(それに服従するにせよ、それと敵対するにせよ)暗黙の参照軸とすることを余儀なくされる。「外の思考」を生み出す場全体が別様の強い磁化を蒙ることになる。

以後、哲学を教える多くの教師たちが誕生したにもかかわらず、こうして新たな磁化を蒙ったフランス的多孔質構造に自らの意識を引き裂かれつつ、偉大な哲学者たちとともに、大学という制度を自らの思索に固有の〈場〉として反省することなく今日に至っている(Denis Kambouchnerなどごくわずかな例外を別として)。だとすれば、原光景とでも言うべき第三共和政に立ち戻り、そこから別の方向へ再出発する手立てが探られねばならない。その一例として、この時代の代表的な哲学者ベルクソンが高校教師であった頃に書いた幾つかの式辞(「礼儀正しさ」「専門」「良識と古典学習」)の読解を通じて、単なる儀礼や慣習の機械的反復ではない《開かれた礼儀正しさ》を鍵概念として取り出してみせた。

「攻撃的な力が大学を押し潰そうとしてきた時はどうするのか、それでもなお礼儀正しくあるべきなのか。政治が必要なのではないか」というykさんの質問があった。実に当を得た質問である。私の答えはこうだ。《自然の本能である不寛容を抑えるべく、政治的・宗教的・倫理的イデーに関する議論においてさえも実践されうる「信念の礼儀正しさ」こそ、人文学、とりわけ古典学習において学ばれうることである》とするベルクソンの説は、古色蒼然とした外見とは逆に今日でも重要性を帯びている。哲学者として大学の問題に対処する限り、常に概念のレベルで応答しようとする「信念の礼儀正しさ」は必要不可欠のものであり、これこそが哲学者として行ないうる「政治」ではないか。

No comments: