Thursday, January 29, 2009

カナダ

最近少しカナダづいている。

いつだったか、カナダのある大学からベルクソン関係の論集を出すので書かないかと打診されていたのだが、それが本格的に動き出すらしい、との連絡が数日前に入った。知り合いでもない人から、「あなたの仕事を読んで興味をもった。一緒に仕事をしないか」と言われるのは、学者にとって一番嬉しいことだ。

そして今日、ケベックのとある大学の人が、私が数年前に書いて、ある研究機関のサイトに載せてもらった論文(のようなもの)を引用したいのだが、どうやって引用すればいいか、と訊いてきた。これもまた嬉しいことだ。論文(のようなもの)の質自体にはまったく満足していないが…

Wednesday, January 28, 2009

動き

忙しい、私なりに(もっと殺人的に忙しい人々もこのブログの読者にいるので、申し訳ない限りですが)。
大学は今、幾つ目かの繁忙期である。各種学内の試験作成・採点、さらに来年度のシラバス作成は、非常勤にも常勤にも共通する仕事だ。常勤だとこれに、各種論文(卒論・修論・博論)指導・審査に始まり、入学試験、委員会関係に至るまでありとあらゆる仕事、雑事が押し寄せてくる。常勤初年度は、すべての担当科目を短時日で一気に準備せねばならず、おまけに語学が担当科目にない場合、これはけっこうきつい。

これに研究者としての活動が加わる。論文執筆が終わったと思ったら、今度はその校正作業がある(当たり前だけど)。国際シンポジウムのオーガナイズ(折衝・折衝・折衝…)も、時々刻々変化する情勢に粘り強くかつ柔軟に対処していかねばならないので、厄介な作業だ。そして家族、子育て…。

みんなよくしのいでいるなと感心する。いやほんと、体を壊さないようにね。



1月9日のポスト「大学の脱構築」に長文のコメントを寄せていただいた。

自分の大学で今起きつつある(起こしつつある)動きを知らせてくれるのはとても嬉しいことです。ありがとうございます。その動きが「大学とは何なのか、何であるべきなのか」という思想的・哲学的な問いの深化と連動するものであることを願っています。

読んでいただいている他の方々にも申し上げていることですが、私はレスポンスを書くのが苦手な人間なので、コメントを頂いても必ずしも応答するとは限りませんが、ともかく気楽に読み流してください。あまり気楽なブログでもないですけど(笑)。

Tuesday, January 27, 2009

プロデューサー目線

そういえば、昨年の7月末にこんなことをメモしていた。

***

プロデューサー目線というのは学問の世界でも重要だと感じている。「結局、最後は自分の仕事」、それはそうなのだが、そしてそれを放棄するつもりもまったくないのだが、業界全体とまではいかなくとも、自分の関われる範囲で「よりよいやり方」「よりよい仕組み」作りにささやかながら寄与できればと願っている。もう十何年前だと思うのだが、宮崎駿監督がテレビでテレビアニメの制作システムを批判していたことを覚えている。

プロデューサーということが必ずしも権力志向のフィクサーを意味するわけではない。そのことが理解されないうちは、シンポでも学会でも研究会でもうまく機能するはずがない。



--今後のジブリはどのような作品を作っていく予定ですか。テレビへの進出などは
鈴木 ジブリには、長編劇場版アニメ用のスタッフしかいないので、劇場版アニメしか作れないんですよ。あくまで目安ですが、原画マンは5秒のカットを描くのに一週間かかります。これを1年間続けたら、一人の原画マンが描ける量というのは2時間の作品中4分しかない。でもこれがジブリのクオリティー。このやり方だと、毎週納品に追われるテレビはとてもじゃないけどできないし、そもそも作り方の前提が違います。それに私自身がやっぱり、劇場版アニメ、つまり映画の方が面白いんですよ。

--ジブリの若手スタッフはどう育成されているのですか
鈴木 2年に1度、公募でスタッフを募り、それぞれの部署の責任者が採用を決めます。その後、カリキュラムを組んで、ジブリの仕組みや基礎知識を覚えてもらうという形で育成していきます。こうなるとプロデューサーと作家という関係ではなく、社長と部下という関係になるので、事あるごとにいろいろな話はしていますよ。年齢はバラバラで、制作部の人間には18歳で入ってきて、まだ20歳という若いのもいます。力さえあれば年齢なんて関係ないんですよ。自分では相当面白い場所を提供しているつもりなので、それをどう生かすかは彼ら次第。ただ、宮さんや高畑さんに逆らうというか、正面切って戦おうとする若者はさすがにいない。

--どのような若手を育てたいですか
鈴木 アニメーターというのは職人です。職人というのはどこまで高いレベルを保って仕事をできるかということが大切なんです。同じ仕事を高いレベルでやり続けることが職人として育つと言うこと。アニメーターなら、観察して描く。これを繰り返すしかない。人の動きも何かもです。若いときに腕を磨くことに没頭できる環境があれば理想的ですね。基本さえできていれば何でもできるようになりますから。逃げ出さずにやり続けてほしいです。(2007年11月10日)

Monday, January 26, 2009

プロデューサーの哲学、哲学のプロデューサー

「彼は最近、哲学者というより、政治家だね」。好んでそう寸評したがる人がいる。自身の「純粋」さを誇示するかのように、それがあたかも守るべき何かであるかのように。


ドゥルーズは『記号と事件』の中で、フランソワ・シャトレについて、こう語っている。

《フランソワ・シャトレのほうは、映画の世界にプロデューサーがいるのと似たような意味で、哲学の「プロデューサー」を自認していました。ほかならぬ映画界に目を向けると、大勢の監督が「プロデュース」と、経営の新しいあり方を確立しようと努めているではありませんか。いかにも舌足らずだったとはいえ、私がとにかく明らかにしたかったのは、哲学のプロデューサーたらんとするシャトレの願いが、シャトレ当人にとっては哲学の代用品などではなく、逆にきわめて独創的で精密な一つの哲学を内に秘めていたということなのです。》(河出文庫、329-330頁)

今年、合田正人さんは法政の院ゼミでシャトレを扱っているようだ。シブすぎる。そういえば、合田さんにはシャトレのようなプロデューサー的なところがある。

プロデュースの哲学を構築する仕方で哲学のプロデューサーたること、それは哲学的に現実に向き合う一つの仕方である。

奨学生、苦しさ訴える 京でデモ 滞納者情報通報に抗議
1月26日10時59分配信 京都新聞

奨学生への支援を訴えてデモ行進する若者たち(京都市下京区)


 景気後退で就職・雇用情勢が悪化するなか、奨学金を返済できない若者らの立場をアピールする街頭活動が25日、京都市中京区などの繁華街で行われた。学生たちがプラカードを掲げて行進し、「滞納者の『ブラックリスト化』反対」「学費を無料に」と訴えた。

 奨学金を貸与している日本学生支援機構が先月、金融機関でつくる個人信用情報機関に滞納者の情報を通報する方針を正式発表したのを受けて、京都市内の学生有志が街頭活動を呼びかけた。通報されると銀行ローンやクレジットカードの利用にも影響する可能性があるため、学生たちは「滞納者のブラックリスト化につながる」と主張。四条河原町付近を行進しながらビラを配った。

 同機構によると滞納者は年々増え、2007年度の未返還額は660億円。街頭活動を呼びかけた京都精華大4年の山田史郎さん(24)は「卒業後に正社員になれればいいが、フリーターや派遣社員では返したくても返せないのが実情。そもそも日本は学費が高すぎる。若者の学ぶ機会を保障すべきだ」と話していた。

Sunday, January 25, 2009

政治家

もう十日ほど前になってしまったが、UTCPの西山さんのブログ「参議院議員・広田一氏来訪―高学歴ワーキングプア支援対策の拡充のために」に言及しておこう。議員や官僚、企業人、大学から遠く離れた場所にいると思い込んでいる人々――しかし大学とはあらゆる場に存在する場である――との意見交換や交渉、広い意味でのinterventionがこれからますます必要になってくるだろう。

「あの人は政治家だから」「彼は最近政治家になっちゃったね」。「純粋」な研究者にとってこれらの言葉は侮蔑も同然である。だがしかし、「政治」に関わることが必ず「概念」や「理念」を放棄することにつながる、と考えるのはあまりに単純であり、無力であるばかりか、有害ですらある。

現実に屈するのではなく、利害打算に取り込まれるのではなく、闘争に巻き込まれつつも、同じレベルで同じ視線で同じ目的を持って闘争に参加するのではなく、いかに微力であれ闘争の概念そのものを変えていけるか。いかに現実世界と切り結ぶか。そのためにはまず現実を知らねばならない。


京都大、非常勤職員100人を22年度再契約せず
1月23日12時29分配信 産経新聞

 京都大学(京都市左京区)が、平成22年度中に契約期限を迎える非常勤職員約100人について、契約を更新しない方針を固めたことが23日、分かった。京大は17年3月の就業規則改定で、同年4月以降に採用した職員の契約期限の上限を5年と規定。この規則に沿った措置だが、背景には国からの補助金抑制など、国立大学を取り巻く厳しい財政事情があるとみられる。

  ・写真 : 雇用崩壊…ハローワークには相談者があふれている

 契約満了の対象となるのは、17年度に採用された非常勤の事務職員や研究員、看護師ら。京大によると、20年12月現在、時給制で働く非常勤職員は約2600人で、うち半数の約1300人は、17年の就業規則改定後に採用された。

 一方、国から京大への運営費交付金は毎年約10億円ずつ減額され、常勤職員数や人件費も抑制傾向が続いている。このため、職場によっては、事務作業などで削減された常勤職員の仕事を肩代わりし、非常勤職員の負担が増えているケースもあるという。

 教職員の組合内には「職場の実態を考慮していない」と一部で反発の声も上がっているが、京大人事企画課は「非常勤職員の業務は臨時的で補助的。雇用期間の上限は採用時に個別に伝えている」としている。

 このほか東大は21年度、大阪大は22年度以降に契約満了となる非常勤職員の雇い止めを実施する予定だが「統計を取っていない」として対象者の人数や職種を明らかにしていない。

Wednesday, January 21, 2009

天動説

EuroPhilosophie関連のイベント情報が二つ来たので掲載しておく。

一つは村上さんの友人で少壮の現象学者シュネルがプラハの哲学者たちと続けている哲学的交流にゴダールのフィヒテ学会が絡んだもの。この企画の素晴らしい点は、シュネルが「御呼ばれ」したさにではなく、本気でプラハの哲学者たちと哲学をしようとしている点である。

もう一つはEuroPhilosophieの教育面の核となるErasmus Mundusで世界から集まっている学生主体で開かれるハイデガー=フーコー関係のワークショップ。日本の栄えあるErasmus Mundus合格者第一号であるナガサカ・マスミさんの名前も見えて嬉しい限りだ。前半に教授たちの発表、後半に学生たちの発表という形を二日間やるという作り方がまた良い。もちろんこれは、世界的な研究者を集めて開く国際シンポジウムでもなく、国内の若手だけを集めて開く小規模な研究会でもなく、かなり優秀な若手の集う国際的なワークショップだからこそ可能なのだが。



あと数か月、四月には、日本で初めて、フランスやベルギーの哲学者と日本の哲学者が共同で、フランス語で一ヶ月間、数名のヨーロッパの学生と、そして願わくば数名の日本人の学生(特に制限はないので、意欲ある学生にはぜひ来てもらいたい)を相手に、哲学の授業を行なうという実験的な試みが行われる。

「くだらない。形だけで中身がない」。「フランス語で議論できる日本人の学生がそもそもそんなにいないのに、そんなことをしてどうするのか」。「フランス語など出来なくとも、哲学研究の腕を磨けばよい」――またぞろそんな声が聞こえてくる。外国語か哲学力かという二者択一は偽の問題だと何度言っても分からない。上で触れたイベントの爽やかさと、このジメジメしたルサンチマンの何たる差であろうか。流転する激動の世界にあって、恒久不動の堅固な大地に足を置いていると思い込んでいる人々。天動説(géocentrisme)とはけっこう根強いものなのである。

***

Amicale des étudiants EuroPhilosophie
ATELIER INTERNATIONAL SUR LES TRANSFERTS PHILOSOPHIQUES FRANCO-ALLEMANDS
LE RAPPORT HEIDEGGER-FOUCAULT
http://www.europhilosophie.eu/mundus/spip.php?rubrique14
Maison de la recherche, Université de Toulouse II - Le Mirail, 5 allées Antonio Machado.
Jeudi, 22 janvier 2009, salle D246, 2ème étage

Modération : Prof. Dr. Frank Fischbach
14h, Approches foucaldiennes de Heidegger, Prof. Dr. Jean-Marie Vaysse (Université de Toulouse II)
14h30, Prof. Dr. Frank Fischbach (ERRAPHIS, Université de Toulouse II)
15h, Discussion
15h30, Pause
16h, L'agonistique des énoncés chez Foucault, Thiago Mota (Erasmus Mundus EuroPhilosophie, Université de Toulouse II – Le Mirail)
16h20, Esquisse d'un transcendantalisme faible : entre Gadamer et Foucault, Oleg Bernaz (Erasmus Mundus EuroPhilosophie, Université de Toulouse II)
16h40, Le manque du corps dans l'analyse existentielle de Heidegger, Luka Nakhutsrishvili (Erasmus Mundus EuroPhilosophie, Univerzita Karlova v Praze)
17h, La Différence comme telle et le dépassement de la métaphysique dans Identität und Differenz, Kwun-lam Lo (Erasmus Mundus EuroPhilosophie, Université de Toulouse II)
17h20, Débat

Vendredi, 23 janvier 2009, salle D30, rez-de-chaussée Modération : Prof. Dr. Elisabeth Rigal (CNRS, Université de Toulouse II)
14h, Prof. Dr. Walter Schweidler (Ruhr-Universität Bochum)
14h30, Technique planétaire et relations de pouvoir, Prof. Dr. Elisabeth Rigal (CNRS, Université de Toulouse II)
15h, Discussion
15h30, Pause
16h00, L'anthropologie chez Heidegger et Foucault, Fillipa Silveira (Erasmus Mundus EuroPhilosophie, Université de Toulouse II)
16h20, La décision de Foucault, la décision de Heidegger. Une recherche de l'héritage à travers la lecture de deux articles derridiens, Masumi Nagasaka (Erasmus Mundus EuroPhilosophie, Bergische Universität Wuppertal)
16h40, Transpassibilité et distinction du moi chez Heidegger et Maldiney, Santiago Zuniga (Erasmus Mundus EuroPhilosophie, Université de Toulouse II)
17h, Débat


Europhilosophiewww.europhilosophie.eu/recherche
Colloque "Bild, Bildung, Einbildung chez Fichte",
Organisé par Jan Kunes et Alexander Schnell Du 26 au 28 février 2009. Villa Lanna, Prague

Colloque organisé avec le soutien de:Internationale Fichte-GesellschaftProgramme ANR "Subjectivité et aliénation", Université Toulouse le Mirail & Archives Husserl, ParisGroupe d'Etudes Fichtéennes en Langue FrançaiseInstitut de Philosophie de l'Académie des Sciences, PragueContact: alex.schnell@gmail.com

Objectif du colloque:Le but de ce colloque est de traiter des concepts fondamentaux d'image (Bild), d'imagination (Einbildung) et de formation (Bildung) dans le contexte des recherches fichtéennes récentes en Europe et dans le monde. Les perspectives seront variées et diversifiées: systématique (le statut de la doctrine fichtéenne de l'image dans les différentes versions de la Doctrine de la Science), relevant de la philosophie populaire (le concept de « Bildung » dans les premiers écrits de Fichte et avant tout dans les textes de 1805-1806) et de l'histoire, politique, éthique et aussi (ce qui est particulièrement novateur) esthétique.

Programme:26 février 2009 :
10-11h : Alexander Schnell (Univ. Paris-Sorbonne) : « Die transzendentale Funktion der fichteschen Bildlehre »
11h-12h: Jean-Christophe Goddard (Univ. Toulouse le Mirail) : « L'image de la Doctrine de la Science »
**14h30-15h 30: Christoph Asmuth (TU Berlin) : « Die Bedeutung J. G. Fichtes für eine Theorie der Bildlichkeit »
15h30-16h30 : Laurent Guyot (Univ. Toulouse le Mirail) : « Le rôle de l'imagination productrice dans la genèse de la conscience de soi »
17h-18h : Alessandro Bertinetto (Univ. Murcia/Udine) : « Das Bild als Durcheinheit »

27 février 2009 :
9h-10h : Günter Zöller (LMU Munich) : « 'Allgemeine Bildung des Verstandes und des Willens aller'. Bildlosigkeit und Bildlichkeit in Fichtes politischer Philosophie der Geschichte »
10h-11h: Marco Ivaldo (Univ. Napoli) : « Einbildungskraft als Geist in der Philosophie und der Kunst »

**11h30-12h30 : Marco Bazzan (Univ. Padoue/Univ. Paris-Sorbonne) : « Le 'Gesicht' chez le Fichte tardif (dans la WL 1811 et la Bestimmung des Gelehrten 1811) »
14h30-15h30 : Max Marcuzzi (Univ. Aix-en-Provence) : « L'image morale »
15h30-17h : Helmut Girndt (Univ. Duisburg) : « Einbildungskraft als Grundlage romantischer Poesie bei Friedrich von Hardenberg (Novalis) »

28 février 2009 :
9h-10h : Jan Kunes (Univ. Prague) : « Hat Fichte in der Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre seine Grundkonzeption geändert? Zur Grundlage der GWL und ihrer Umsetzung im §5 derselben in Auseinandersetzung mit einer heute verbreiteten Interpretation »
10h-11h: Jindrich Karasek (Univ. Prague) : Ich und Nicht-Ich. Zum Problem der Welt in Fichtes Wissenschaftslehre
11h30-12h30 : Martin Vrabec (Univ. Prague) : « Ist in der Grundlage der gesammten Wissenschaftslehre eine intellektuelle Anschauung zu suchen? »

Friday, January 16, 2009

脱力

この1月に一本、たまたまだが3月に三本(!)論文が出る。ベルクソン研究が2本、大学論が2本。

最後の一本が大学論で、その直しを終わりつつある今、なんとなく脱力感に襲われている。フランス語と日本語で書いた2本の大学論は前半と後半を成しており、自分なりに「フランス的大学の脱構築」について一つの画を描いてみた。自分なりに手は尽くしたつもりだが、レベルを上げるには、さらにさまざまなものを、それこそ山のように読み、さらに考え抜かねばならない。

フランスにおいてデリダの大学論が避けて通れない試金石だとすれば、日本ではそれは、たとえ異なるレベルの哲学的出来事ではあれ、蓮實重彦の一連の仕事かもしれない。もちろん彼の大学論としては『私が大学について知っている二、三の事柄』(東京大学出版会、2001年)が有名だが、それ以外にも、さまざまな本に散らばった形で収められている。

例えば、蓮實重彦『「知」的放蕩論序説』というインタビュー集に「大学をめぐって」という2001年に行われた長いインタビューがある。最後のほうは腰砕けのインタビューだが、前半は様々な問題を提起していてなかなか興味深い。

《国民国家が高等教育について果たしてきた役割を、このグローバリゼーションなどと言われている時代に、何が担うことになるのかという問題です。日本では「市場原理」がこれにかわるなどと気の利いたつもりで発言する人がいますが、アメリカでも、またヨーロッパでもそんな馬鹿なことをいう人は一人もいない。[…]

日本の大学がみずから導入すべき「変化」は、歴史意識を踏まえたものでなければいけないと思っています。私は必ずしもアドルノの徒ではないし、むしろ彼には批判的ですらあるのですが、少なくとも彼がホルクハイマーと共に提起した後期資本主義社会における「啓蒙の自己崩壊」という概念くらいは踏まえておかないと、大学の大衆化といったところで、善意の連帯で事態が改善されるかのようなきわめて抽象的な議論に陥ってしまいます。ところが、文部科学省が口にする「大学改革」には、今がどういう時代なのかという歴史意識が完全に欠落している。だから、審議会などでも、現状に対する泣き言めいた悲憤慷慨と、「外国ではこうだ」といった類の歴史意識を欠いた抽象論ばかりが話題になるのです。

私が言う「第二世代の大学」[=19世紀に制度化された近代的な高等教育機関としての大学]を「第三世代の大学」[=21世紀の大学]に変化させようとするときに、何がいかなる理由で必要か、そうした前提がまったく議論されないのです。本来なら、国民国家に対するきわめて19世紀的な、福沢諭吉的ともいえる距離の取り方による国立、私立という大学の分け方が今後も維持されるべきかどうかという議論から始まらなければいけない。私は、この区別は、「第三世代」の大学ではほとんど意味を持たなくなると思います。しかしそういうと、「それはひとまず措いておいて、危機にある(と理由もなく判断される)国立大学をどうするか」という議論ばかりに話が集中してしまう。[…]

しかし、そんなものは、現在の大学が必要としている変化でもなんでもない。》(11‐12頁)

Thursday, January 15, 2009

決定力不足

昨年8月中旬、北京オリンピックの頃に書いたもの。正月以来いろいろ書いてるように見えるかもしれないけど、そんな暇はなかった。よく読んでもらえば分かるとおり、実はほとんど去年書いたものばかりですよ。



研究は芸術(創作)活動とスポーツを足して二で割ったもの。そう考えているので、オリンピックも純粋なスポーツ鑑賞とは別に、「研究にどう役立てるか」という観点から見ている部分がある。

フェンシングは完全にヨーロッパ的な競技であり、その競技としてのマイナーさで言えば、哲学研究と最も似ているかもしれない。

ただ、研究そのものは個人競技だとしても、研究を取り巻く諸々のイヴェントはやはり団体競技なので、その点、サッカーが参考になると思うことが多い。

例えば、ゴール前(ペナルティ・エリア内)の混乱でシュートを打てずにあたふたしている日本代表を見ていると、シンポジウムや研究会などでまともに質問できない若手という様子を思い浮かべてしまう。

シュートを打つ気もないのに、華麗なドリブルをしている連中は論外なので、ここでは語らない。

自分の質問の意図が通じる場合もあるし、通じない場合もある。自分が間違っている場合もあるし、相手が早とちりの場合もある。それはあまり気にしない方がいい。枠に行っている(質問の意図は自分には明快である)なら、それでいい。

プレッシャーもかかるので、どうしても言葉足らずになりがちである。倒されたふりをしてPKをもらおうとする(言葉を十分紡がず、相手の理解力にすがろうとする)。だが、大切なのは、自分が重要だと思った質問を中途半端に終わらせず、相手になるべく正確に理解してもらおうと最後まで意を尽くすことだ。プレッシャーに倒されず(フィジカルで負けることなく)、最短でフィニッシュまでもっていく(シュートを最後まで打ちきる)ということ。

「最短で」とは「打ち急げ」ということではない。必要な時間はかければよい。ただ、華麗なドリブルも時間をかけすぎると、相手にとられる可能性が高くなる。必要なタイミングで、必要な量だけ行なうこと。例えば、シンポジウムで、よく組み立てられた長い質問をするのは構わないし、それが求められている部分もあるが、小さなゼミで同じことをすると場違いな雰囲気を醸し出すことが多い。その意味や与える効果がまったく異なるので、注意が必要だ。

いずれにしても、質問や議論の場合が典型的だが、言葉はサッカーで言えばボールである。ボール・コントロールをうまくできない者にドリブルもシュートもない。

今回のオリンピック日本代表に対するコメントから幾つかFWに関するものを拾ってみた。



それにしてもあの決定的なの決めれないようでは、期待薄。 正直、ワールドカップの柳沢のシュートを思い出したよw どーやったらあそこから外せるんだってね。

今の代表FWは柳沢がいっぱいいるよな。

なんか中盤ダラダラしてて、攻めはせっかちなんだよね、見てて。

普段からすぐファール貰う事当てにするサッカーしてるから、その結果でしょう。

日本人はパス回しが大好きなんだ。シュート練習よりパスの練習のほうが多いんだ。

日本で点を取れるのはDFだけなのか?点を取るばかりがFWじゃない、とか語っている奴らが、今の日本サッカーをダメにしてる事に早く気づけよ。

基本的に全く日本のサッカーに成長がない!点をとらないと話にならない!誰でも良いのですがゴールしようという意識が少ないと思う。ペナルティエリア内でボール持ったらオドオドしてる・・・。PKもらおうとばかりで自分でゴールするんだ!という気持ちで立ち向かってもらいたいです。A代表でもそうですがとにかく自分がゴール決めるという強い気持ちをもってほしい・・・。勝負ごとなので負けたとしても勝つという姿勢だけはみせてほしい・・・。サッカーみてたらいつもこんな感じの試合が多いと思います。

確かにPKを取ってもらっても良い場面はあったけど、ビデオで見る限り倒れ方がちょっとオーバーアクションだった?そこで心証が悪かったのかね~?いずれにしても、ド・フリーであんなシュートを外し、さらに苦笑いしてるようじゃあ、それまでの代表チームだよね。甘過ぎる! EURO 08の戦いを見たあとでは、悲しくなるようなメンタリティー。

日本の場合はアウェーとかそんなのは関係なしに、ただ弱いだけ。勝ちたいならシュートは必ず枠内に飛ばせ!!!!!枠に飛ばないシュートを打っても勝てませんからね。 だいたい、シュートを打って終わった時に拍手するのも情けない。どこのトップ選手がそんなことする?枠外したら悔しがるし、文句言われるぞ!?

技術はあるって言われてるけど、ないよね?トラップできない、シュートは打てない、判断力もない、気迫もない。あるのはちょっとした分析力と、一人前の口のみ。

若い日本代表もサッカーは上手くなってないのにマスコミの受け応え、言い訳だけはずいぶん成長してる。

今の代表に闘争心がないとか言いますが、闘争心を失ってるのはおそらく日本人全体でしょう。彼らは、その象徴としての代表にすぎないと思われます。

Wednesday, January 14, 2009

地動説(成人式の後に)

UTCPで数日前に東アジアの若手哲学者の集いが行われたのだが、それに対する小林さんの感想より(本当は全文抜粋したいくらいだが)一部抜粋。まったくそのとおりである。

《学会は研究の共同体である。それが共同体になるためには、相互的な応答がなければならない。そのためには他人の発表を自分の問題として受けとめて「応答する」という責任が課せられる。そのことをどのくらい自分で果たしたのか、よく反省してみてほしい。自分が一方的に発表して、そこでもう「終わった」と思っている人は、実は、「共同体」には参加していないのだ

自分が「共同体」をつくるのではなくて、「共同体」に「甘えて」、そこで自分の発表だけを許容してもらう、という、日本の(?)悪しき旧習からもう自由になってもいいのではないか(もっとも「ないものねだり」の、あるいは単なる主観的印象や連想ゲームの質問やコメントも困ったものだが)。》

さまざまなイヴェントは常々若手に対して開かれたものであってほしいと願い、また私にできうるかぎりでそのために尽力してもきたのだが、なんと若手のほうは案外、英語やフランス語で発表し議論する機会を与えられることを大してありがたいこととも思っておらず(別にありがたいと思ってもらわなくて結構だが、最低限その意義は理解してもらわなければ困る)、むしろ迷惑にすら感じており、こんなことであれば参加しないという意図を彼らの間で漏らしているのだという。彼らの「自然」で「正常」な発展(!?)から逸脱することは厳に慎みたいのだそうだ…上に引用したのと正確に同じ挙動を往々にして示す若手たちが、である。成人式の後に、言うべき言葉が見つからない。

このブログを読んでくれている私の友人たちには信じられないことであろうが、このような完全に閉じた世界観が未だに執拗に息づいているのである。

友よ、それでも地球は動いている…。あなたがたの力添えが必要なのです。

Tuesday, January 13, 2009

新刊情報(ジョン・マラーキー『現実の屈折。哲学と動くイメージ』)

日本語のものもいろいろあるんですけど、ちょっと急いでいるので(論文…)、とりあえず英仏二点。

まずは『ベルクソン年鑑』第4巻が出ました。

それから 2007年シンポの参加者で、英国の代表的なベルクソニアンの一人マ ラーキーが新刊を出しました。内容紹介・目次・レヴュー(先月『現代思想』ドゥルーズ特集に翻訳が出た デューリングも一言書いてますね)を以下に貼っておきます。55ポンド=7400円と安くはありませんが、英米的フランス現代思想の延長線上で展開されるイメージ論や映画の哲学に関心をもたれた方は、ぜひ図書館・公費での購入をご検討くださいませ。


Refractions of Reality: Philosophy and the Moving Image

Reviews:
'This book, in some sense, brings to an end a certain phase of film theorizing and instead looks toward something quite new: how theories have been written and how they may be written, how they fall into types, how these types are filling out not a logical grid but a grid of the anxieties we feel, and the defenses we erect toward the everyday. A wonderful, ground-breaking book.' - Edward Branigan (University of California, Santa Barbara), author of Projecting a Camera:
Language-Games in Film Theory and Narrative Comprehension and Film


'Highly original both in its concern for avoiding the illustrative approach generally favoured by philosophers, and in the speculative ambition that looms behind the critical edge of its readings of
contemporary film- philosophers. The very question "when does the film itself happen?" is a fundamental one, which is rarely addressed. Mullarkey is opening the door to a brand new type of philosophical engagement with films.' - Elie During (Université de Paris X-Nanterre),
author of Matrix: Machine philosophique

Description:
Why is film becoming increasingly important to philosophers? Is it because it can be a helpful tool in teaching philosophy, in illustrating it? Or is it because film can also think for itself, because it can create its own philosophy? In fact, a popular claim amongst film-philosophers is that film is no mere handmaiden to philosophy, that it does more than simply illustrate philosophical texts: rather, film itself can philosophise in direct audio-visual terms. Approaches that purport to grant to film the possibility of being more than illustrative can be found in the subtractive ontology of Alain Badiou, the Wittgensteinian analyses of Stanley Cavell, and the materialist semiotics of Gilles Deleuze. In each case there is a claim that film can think in its own way. Too often, however, when philosophers claim to find indigenous philosophical value in film, it is only on account of refracting it through their own thought: film philosophises because it accords with a favoured kind of extant philosophy.

Refractions of Reality: Philosophy and the Moving Image is the first book to examine all the central issues surrounding the vexed relationship between the film-image and philosophy. In it, John Mullarkey tackles the work of particular philosophers and theorists (Zizek, Deleuze, Cavell, Bordwell, Badiou, Branigan, Rancière, Frampton, and many others) as well as general philosophical positions (Analytical and Continental, Cognitivist and Culturalist, Psychoanalytic and Phenomenological). Moreover, he also offers an incisive analysis and explanation of several prominent forms of film theorising, providing a meta-logical account of their mutual advantages and deficiencies that will prove immensely useful to anyone interested in the details of
particular theories of film presently circulating, as well as correcting, revising, and re- visioning the field of film theory as a whole.

Throughout, Mullarkey asks whether the reduction of film to text is unavoidable. In particular: must philosophy (and theory) always transform film into pre-texts for illustration? What would it take to imagine how film might itself theorise without reducing it to standard forms of thought and philosophy? Finally, and fundamentally, must we change our definition of philosophy and even of thought itself in order to accommodate the specificities that come with the claim that film can produce philosophical theory? If a ‘non-philosophy’ like film can think philosophically, what does that imply for orthodox theory and philosophy?


Table of Contents

Preface: The Film-Envy of Philosophy
Who Wants to be a Philosopher Anyway?
Philosophical Cinema or Cinematic Philosophy?
Convergence on the Film Process: The Elan cinematique
Philosophy's Perpetual Identity Crisis

Introduction: Nobody Knows Anything!
Oh, They Both Make Such Good Arguments!
The Circular Logic of Paradigms and Examples
Between Theory and Post-Theory
Continental or Analytic? Once More Unto the Breach
Rapprochement or Impasse? Film as Relational Process
Towards a Non-Philosophical Cinema
Nobody Knows Everything: Knowing, Being, and Process

Chapter One: Illustrating Manuscripts
The Meta-en-scene
The Advent of High-Concept Cinema: Once Upon a Premise...
Extreme Pretexts
Philosophies Through Films
Gone to the Movies
Conclusion

Chapter Two: Bordwell and Other Cogitators
Introduction: Going Back to the Future
Classical and Arthouse: Hurray for Hollywood
Messages are for Western Union
Science, Empiricism, Culture
Closely Observed Frames
>From Reflection to Refraction
Play Time
Moving the Continuum
The Representationalist Axiom of Analytic Film-Philosophy

Chapter Three: Zizek and the Cinema of Perversion
Good Theorist, Bad Theorist: Bordwell Contra Zizek
Freudianism for Beginners
The Return of the Real
The Film Gaze
Representationalism Again: Zizek and the Pre-Cogs
Traversing The Fantasy or Transcending the Real?
The Return of the Real to Reality
Films, Time and Time Again
Conclusion

Chapter Four: Deleuze's Kinematic Philosophy
Deleuze's Ambivalence: Philosophia sive Cinema?
Cinema's Concepts
A Non-Reductive Materialism
>From Movement to Time: Images and Signs
Time Regained
Is Cinema Bergsonian?
Movement-Image and Time-Image: When is a Cut Irrational?
Films and their Makers: From the Automatic Art to the Autonomy of Art
Amongst the Deleuzians: A Thousand Tiny Examples
Conclusion

Chapter Five: Cavell, Badiou, and Other Ontologists
Cavell and the Ontology of Ordinary Film
The Philosophical Ordinary
Reflections on the Ontology of Film
Automatism of the Medium
Contra Deleuze?
Modernism
Reflexivity: Film's Other Minds
Other Cavellians
More Ontologies: Frampton's Affective Thinking
Badiouís Inessential Cinema

Chapter Six: Extended Cognitions and the Speeds of Cinema
Anderson's Elusive Reality
Branigan's Radial Camera
When is a Film? The Cinematic Event
Nothing Happening: Events in the Blink of An Eye
Bringing Us Up and Down to Speed

Chapter Seven: Fabulation, Process and Event
Jacques Ranciere's Film Fables
Thoughts Taken Out of Context
Making Movies and Art with Time
Fabulating the Film Event
Paradoxical Feelings: Moved by Movements

Chapter Eight: Refractions of Reality Or, What is Thinking Anyway?
Outline of an Outline
Affective Embodiment
New Mediations
Differential Spectatorship
Sound and False Fidelity
Acting Realism
Animal Cinema
A Non-Philosophy of Cinema
What is Thinking (Again)?
Conclusion: Code Unknown: A Bastard Theory for a Bastard Art

In Praise of Being Unphilosophical
Filmology: From Unknowing to Pluriknowing
Beyond Coprology

Monday, January 12, 2009

ベテランの挫折

このあいだ、前に教えていた学生がある授業の後にふらりと会いに来てくれた。彼の論文や院試の話が主だったが、このブログにも話が及び、「先生、最近毎日書いてますね。溜まっているみたいですね」と言われた。

それじゃストレス発散みたいじゃないか。でも、そんなもんかも(笑)。言いたい放題やりたい放題の人間に見られがちですが、そうすると風当たりも強いし、嫌がらせやいじめもあるしね。

まあでも、やはりこのブログはストレス発散ではないので、言われるべくして言われていないことは言われねばならない、ということです。哲学と大学の問題は特にそう。



モンスターペアレントならずとも、家庭における子供の教育が崩壊している。この事実を認めずに、学校を云々するなどできることではない。このあいだパリに行ったとき、フランス語でも教師のストレスに関する本が刊行されていたのを見かけた。


<公立校教員>ベテランの挫折増加 孤立深める
12月25日22時37分配信 毎日新聞

 心を病む先生が増え続けている。精神疾患で休職する教員数が過去最高となった文部科学省の調査結果(25日)。ベテランの先生でも手のかかる児童生徒に立ち往生し、多忙の中、孤立を深めている。

 「最近多いのは、40代後半から50代のベテラン教員の挫折」と話すのは、北九州市教育委員会内の保健室で教員の相談にのる保健師だ。「立って騒ぐ子に注意しても、これまでの指導が通用しない。授業が成立せず、保護者のクレームが入り始めると対処が難しい。夜間の家庭訪問や保護者説明など時間外の仕事も続き、精神的な病に陥る例がある」

 最長期限の3年休職して復職したものの、辞めていく教員もいる。休職期間が長いほど復帰は難しい。

 学年主任として生徒間トラブルの処理に奔走した関西地方の50代の男性教員は、自律神経失調症と診断され今春から休職した。きっかけは肩の重い痛みと右腕のしびれ。脳血栓の前兆と思い受診したが異常はなかった。「授業後に口が乾き強い疲労に襲われるようになった。休む理由を探す自分にがくぜんとし、心療内科でストレスが原因とわかりました」

 東京都教職員互助会の三楽病院で、年900件近くの相談に対応する臨床心理士の溝口るり子さんは「悩みがあっても同僚は忙しそうで相談できず、抱え込んでしまう教員も多い」と話す。

 団塊世代の大量退職で、経験の浅い若手教員も増えている。教員の相談にのる東京メンタルヘルス・アカデミーの武藤清栄所長は「子ども同士のトラブルにどう介入していいかわからない教員が増えている。受験、受験で教員採用に至った人も多く経験不足。相談すれば楽になるのに、『余計なことを話せば自分が傷つく』と孤立しがち」と指摘する。

 07年度に精神的な病で休職した教員は全教員の0.55%。だが武藤さんは、時々休んだり、抗うつ剤を服用して働く教員はその5倍程度に上ると推測、休職予備軍のすそ野は広いとみる。【山本紀子】

Wednesday, January 07, 2009

大学の脱構築

昨年10月末に書いたメモ。



大学という制度の脱構築は様々な形でなされうるはずだが、私の考えでは、次のようなことがまず何よりも先に行われるべきである。


1・そもそもの「大学」概念の脱構築

 特に、中世における「大学」の生成過程について私たちはもっと詳しく知る必要がある。例えば、大学の起源はassociationであった、universitasは単にcorporationという意味であった、という事実を振りかざして、大学の起源における独立性・自律性・連帯性を強調するのはいいが、1)ボローニャをはじめとする南欧の医学系・法学系が強い大学が学生主導の団体であったのに対し、パリなどの教養系が強い大学が教師主導の団体であった、つまり「団体」そのものが画一的ではなかったこと、2)その団体が形成されるにあたって、宗教的・政治的権威との折衝が最初から重要な役割を果たしていたこと(licentia docendiの導入、修道会士たちの参入、都市や国家の介入)などが見過ごされては困る。起源にユートピア的な団体の純粋な独立や自律があったわけではないのである。


2・近代大学の「起源」としての「フンボルト理念」の脱構築

 これは、フンボルトのテクスト(いわゆる構造論文)の脱構築的読解という形もありうるし、フンボルト理念の形成史の脱構築という形もありうるだろう。いずれにしても、最低限《フンボルト理念は遡及的に捏造された「起源」である》という程度のことは踏まえる必要がある。この点で、今年刊行された潮木守一氏の『フンボルト理念の終焉?――現代大学の新次元』(東信堂、2008年3月)は、それだけで十分ということはないにしても、ぜひ参照される必要がある。


3・現代大学をとりまく諸概念・諸価値の脱構築

 「卓越性」「評価」「能率性」「引用数」といった諸概念・諸価値自体を批判的に再検討することは可能ではないか。「卓越性excellence」とは一体何なのか。「卓越性」を強要する人々の書いたテクストを読み解くことで、あるいは過去の思想家(必ずしも経済学者でなくともよい)や哲学者たちの諸概念を借用することで、脱構築を試みる、ということである。最後のこの点は、「哲学科」の哲学者こそが彼らの優れた能力を駆使して試みるべき類のものである。無関心であるのは論外であるとしても、絶望して見せたりシニシズムやニヒリズムを気取るのもあまりに安易ではないか。

Tuesday, January 06, 2009

先立つもの

パソコンが壊れてしまった…。あと2本論文の締め切りが迫っているのにどうしよう。

最近のニュースより。

***(急いでいたので、どこからとったか忘れてしまった…)

大学4年間でかかる教育費が、子供1人当たり平均約700万円にのぼることが5日、教育ローン利用者を対象にした日本政策金融公庫の調査で分かった。高校からの出費を加えると、私立大学生では総額1000万円を超えており、教育費が家計を圧迫している実態が浮かんだ。
 
調査は、公庫の教育ローンを利用した約2800人から回答を得た。 大学の入学時にかかる費用は平均約95万円。また、授業料や通学費、教科書代などの教育費は、年間で平均約154万円かかっている。国公私立別では、私立大学が約159万円で、国公立大学の約104万円と50万円以上の差があった。
 
大学4年間の教育費の総額は平均約697万円。高校からの教育費を加えると、国公立大生は834万円にとどまったが、私立大生では、文系学部で1003万円、理系学部で1140万円と、ともに1000万円を超えた。
 
子供が下宿している場合、さらに仕送りが家計にのしかかる。年間の仕送り額は平均96万円で、1月当たりは8万円。年間100万円以上を仕送りしている世帯は45・5%を占めた。
 
教育費の捻(ねん)出(しゆつ)方法は、「教育費以外の支出を削る」が61%でトップで、「奨学金」が49%、「本人のアルバイト」が42%。節約している支出は「旅行・レジャー費」が62%で最も多かった。
 
公庫では「多少苦しくても、子供のために教育費を捻出する世帯が多く、低所得層ほど家計を圧迫する傾向が強い」と話している。

Monday, January 05, 2009

サイレント・マジョリティ―日本的な、あまりに日本的な

第3回現象学会についての村田純一さんの報告より。まったくそのとおりである。

《もちろん現象学研究者の数や、現象学会の規模などを考えれば、香港と日本とでは桁数が違うことには変わりはない。また、国際的な視野からすると、確かに日本の西欧哲学導入の長い歴史は尊重されており、さらに現在では、国際的に活躍する研究者が増えてきてはいることも間違いはない。しかしそれでも、香港(中文大学)のスピードとエネルギーと比較すると、日本の現在は「沈黙」の多数派といった印象を持たれても仕方がないように思われた(8月のソウルで開かれた世界哲学会議では、日本の研究者から、日本で同規模の会議を開催することのむずかしさを語る声を多く聞いたが、今回の国際現象学会でも、同じように、現在の日本で今回のような規模の会議を開くことは困難だという声を多数聞くことになった)。このような点から、あらためて日本の哲学の行方とアジアの哲学の行方について考えさせられる機会となった。

なお一つ付け加えておくなら、この会議の直前に、香港で、香港中文大学と教育学院に所属する二人の若い哲学研究者の努力によって、日本哲学を中心軸とする国際会議が開かれた。この会議に関してはすでに参加された中島隆博氏が報告を書かれている。中島氏は、そこで、「ボールはわたしたちに投げられているのだ」と書かれているが、たしかにUTCPのような組織の責任はますます重くなるように思われる。》

新しい一歩を踏み出さないための言い訳はもういい。やるか、やらないか、それだけだ。

Sunday, January 04, 2009

廃墟の後に(3)

大学とは制度であり、条件であり、交渉であり、介入である。条件のない大学などないし、それを要求するという身振りが批判的な射程を備えているとも思わない。なされるべきは具体的なプロジェクトの提示であり、その実行である(デリダがDu droit à la philosophieでやっていたのがまさにそれだと私は考える)。私が上で言ったことで言えば、学振の研究員に教育の機会を義務として与える必要性や、アグレガシオンやh大の試験に相当するような試験制度の必要性を説くことである。

有力大学群が行なっている「自衛策」ないし「護衛船団」的な非常勤の自校生への割り当ては、現実的な救済措置としては十分理解できるものではあっても、理念的にはやはり問題を抱えている。そのためには最有力大学群の圧倒的な《植民地主義》が崩されねばならないのはもちろんのことであり、現に急速にそうなりつつある。問題はそのliquidationの後、廃墟の後に、いかなる未来図を描くのか、である。単なる弱肉強食の自由競争社会ではなく、よりよい教員、よりよい教育、よりよい大学を作るための制度及び試験が必要である。今の日本にはそのどちらもが欠けている。

ここに《大学という制度の脱構築》の必要性が生じる。

Saturday, January 03, 2009

廃墟の後に(2)

「大人の世界がいずれ分かってくるよ」と言われ続けてきた。思うに、「大人の世界」とは、「俺はあいつがキライだ」という理由で陰に陽に拗ねてみせたりゴネてみせたり、お友達ごっこと戦争ごっこをしてみたりという、実に子供じみた世界である。なんというか、器の小ささ、卑小な自我の肥大ばかりを感じる。

何と思われようと、低いレベルではあれ、私はここで理念と概念の話しかしていないつもりである。

昨日の続き。11月下旬に書いたもの。



少なからぬ若手研究者は、塾の講師や予備校講師としてアルバイトをしている。自分の研究とまったく無関係なことを教えて生活費を稼いでいる場合がほとんどである。これで、「自分の研究にプライドを持て。全身全霊をかけて打ち込め。それでいい研究をしたら学振の特別研究員として、非常勤として拾ってやる」などとは笑わせる。

また、「私の若い頃もそうだったよ。いつの時代もそうなんだ」といった言葉も先生方からよく聞かされたが、1)高学歴ワーキングプアの問題は昔とは数が桁違いである、2)昔そうだったから今も何もしないというのか。今教授職にある者が改革しないで誰が改革を行なえるというのか。

誰も最初から一流の教師なのではない。ひとは教師になるのである。アメリカの名門h大学では、難関の院試および二年目の終りに課される試験をくぐりぬけることで、フランスではアグレガシオンをとることで、優秀な学生たちは若いうちから教育経験を積むことを許され、義務として課される。

年齢と能力はさして関係ないという自明の事実はひとまず措いておけば、なるほど、「若い先生の授業を受けさせられるほうはたまったものではない」という反論はいつでも可能である(医者然り、弁護士然り)。しかし、いずれにしても、若い研究者を信頼し、チャンスを与えない国に独自の文化をつくりあげていく可能性もなければ、子供たちの未来を語る権利などあるはずもないことだけはたしかである。

また、なるほど、アグレガシオンは人を型にはめる。h大の院試はオリジナリティを殺すものだ、という反論は可能である。しかし、そういったものを課さずに「自由に」形成された日本の哲学者は、よりオリジナリティに溢れているだろうか?フランスやアメリカの優秀な若手研究者が当然持っている平均的な学識をもっているだろうか?

制度があることが必然なら、よい制度をつくらねばならない。制度が必要悪なら、最善の悪を行使しなければならない。そこで絵空事の無制約なアナーキーを唱える活動家的大学人ほど無責任かつ無力なものはないし、ノンポリと称して結局のところ体制=大勢(サイレント・マジョリティ)に盲目的に加担する大学人ほど偽善的かつ欺瞞的なものはない。

Friday, January 02, 2009

廃墟の後に(新年に思う)

新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。しばらく前に書いたもの。



ここ数カ月なんだかんだと忙しく、体調も思わしくなかったので、パリ行きの前に一度行っておこうと、今日は病院に行って、注射とレーザー治療をしてもらってきた。

病院近くに住んでいるgkさんと昼食をともにする。アメリカのh大に在籍していらっしゃる氏の話は、大学という制度を考える上でとても興味深かった(以下の話はあくまでも一個人の経験談と、それに触発された友人=私の私的な感想です、念のため)。

h大では、数年前まで博論のdefenseがなかった(!)。むろん提出前にかなりチェックされ、審査員たちからコメントは貰えるし、ダメな個所は直されたうえで提出されるらしいのだが、それにしても驚きである。数年前に非公開のdefenseが課されるようになったらしい(アメリカの大学は一般的に非公開とのこと)。



h大の年間予算はフランス一国家の教育予算を上回っている。その豊富な資金をバックに、大学院生の学費はすべて無料。生活費は最初の二年は奨学金でまかなわれ、その後はほぼ自動的に全員に割り当てられる授業を担当することでペイされるのだという。

また、これも重要な点なのだが、h大では語学を教えるのは若手の仕事で、大学院生が教えるのだという。語学は若い感覚(学生と近い感覚)をもったものが教えた方がいい、というgkさん夫妻の考えには考えさせられるものが多い(日本には年をとった非常勤の先生方も数多くいるので、なかなか難しい問題なのだが。常勤の先生には非常勤のコマ数制限をするなどの措置が必要かもしれない)。

ともあれ、何度も言うが、「自分の研究対象を教えることで生活費を稼ぐ」ということの意味はほとんど決定的と言ってもいい影響を若手研究者の精神形成に及ぼす。

ある先生に「学振の特別研究員が財政的に保障されているのはたしかに素晴らしいが、教育機会を義務として与えてない点がきわめて遺憾です」と申し上げたところ、彼は笑ってこう言った。「そこまで特別研究員を信頼してないよ」。ここに、日本の高等教育の縮図を見るのは行き過ぎだろうか。

貸与に際して若手研究者の親を「保証人」にとる育英会然り、教育機会を与えることを「受け入れ大学」の義務としない日本学術振興会然り、日本の高等教育行政は、若手研究者を一人前の社会人と見なそうとせず、またそのように育て上げようともしていない。その代償はとてつもなく高い。