大学とは制度であり、条件であり、交渉であり、介入である。条件のない大学などないし、それを要求するという身振りが批判的な射程を備えているとも思わない。なされるべきは具体的なプロジェクトの提示であり、その実行である(デリダがDu droit à la philosophieでやっていたのがまさにそれだと私は考える)。私が上で言ったことで言えば、学振の研究員に教育の機会を義務として与える必要性や、アグレガシオンやh大の試験に相当するような試験制度の必要性を説くことである。
有力大学群が行なっている「自衛策」ないし「護衛船団」的な非常勤の自校生への割り当ては、現実的な救済措置としては十分理解できるものではあっても、理念的にはやはり問題を抱えている。そのためには最有力大学群の圧倒的な《植民地主義》が崩されねばならないのはもちろんのことであり、現に急速にそうなりつつある。問題はそのliquidationの後、廃墟の後に、いかなる未来図を描くのか、である。単なる弱肉強食の自由競争社会ではなく、よりよい教員、よりよい教育、よりよい大学を作るための制度及び試験が必要である。今の日本にはそのどちらもが欠けている。
ここに《大学という制度の脱構築》の必要性が生じる。
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