Saturday, January 03, 2009

廃墟の後に(2)

「大人の世界がいずれ分かってくるよ」と言われ続けてきた。思うに、「大人の世界」とは、「俺はあいつがキライだ」という理由で陰に陽に拗ねてみせたりゴネてみせたり、お友達ごっこと戦争ごっこをしてみたりという、実に子供じみた世界である。なんというか、器の小ささ、卑小な自我の肥大ばかりを感じる。

何と思われようと、低いレベルではあれ、私はここで理念と概念の話しかしていないつもりである。

昨日の続き。11月下旬に書いたもの。



少なからぬ若手研究者は、塾の講師や予備校講師としてアルバイトをしている。自分の研究とまったく無関係なことを教えて生活費を稼いでいる場合がほとんどである。これで、「自分の研究にプライドを持て。全身全霊をかけて打ち込め。それでいい研究をしたら学振の特別研究員として、非常勤として拾ってやる」などとは笑わせる。

また、「私の若い頃もそうだったよ。いつの時代もそうなんだ」といった言葉も先生方からよく聞かされたが、1)高学歴ワーキングプアの問題は昔とは数が桁違いである、2)昔そうだったから今も何もしないというのか。今教授職にある者が改革しないで誰が改革を行なえるというのか。

誰も最初から一流の教師なのではない。ひとは教師になるのである。アメリカの名門h大学では、難関の院試および二年目の終りに課される試験をくぐりぬけることで、フランスではアグレガシオンをとることで、優秀な学生たちは若いうちから教育経験を積むことを許され、義務として課される。

年齢と能力はさして関係ないという自明の事実はひとまず措いておけば、なるほど、「若い先生の授業を受けさせられるほうはたまったものではない」という反論はいつでも可能である(医者然り、弁護士然り)。しかし、いずれにしても、若い研究者を信頼し、チャンスを与えない国に独自の文化をつくりあげていく可能性もなければ、子供たちの未来を語る権利などあるはずもないことだけはたしかである。

また、なるほど、アグレガシオンは人を型にはめる。h大の院試はオリジナリティを殺すものだ、という反論は可能である。しかし、そういったものを課さずに「自由に」形成された日本の哲学者は、よりオリジナリティに溢れているだろうか?フランスやアメリカの優秀な若手研究者が当然持っている平均的な学識をもっているだろうか?

制度があることが必然なら、よい制度をつくらねばならない。制度が必要悪なら、最善の悪を行使しなければならない。そこで絵空事の無制約なアナーキーを唱える活動家的大学人ほど無責任かつ無力なものはないし、ノンポリと称して結局のところ体制=大勢(サイレント・マジョリティ)に盲目的に加担する大学人ほど偽善的かつ欺瞞的なものはない。

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