Friday, January 16, 2009

脱力

この1月に一本、たまたまだが3月に三本(!)論文が出る。ベルクソン研究が2本、大学論が2本。

最後の一本が大学論で、その直しを終わりつつある今、なんとなく脱力感に襲われている。フランス語と日本語で書いた2本の大学論は前半と後半を成しており、自分なりに「フランス的大学の脱構築」について一つの画を描いてみた。自分なりに手は尽くしたつもりだが、レベルを上げるには、さらにさまざまなものを、それこそ山のように読み、さらに考え抜かねばならない。

フランスにおいてデリダの大学論が避けて通れない試金石だとすれば、日本ではそれは、たとえ異なるレベルの哲学的出来事ではあれ、蓮實重彦の一連の仕事かもしれない。もちろん彼の大学論としては『私が大学について知っている二、三の事柄』(東京大学出版会、2001年)が有名だが、それ以外にも、さまざまな本に散らばった形で収められている。

例えば、蓮實重彦『「知」的放蕩論序説』というインタビュー集に「大学をめぐって」という2001年に行われた長いインタビューがある。最後のほうは腰砕けのインタビューだが、前半は様々な問題を提起していてなかなか興味深い。

《国民国家が高等教育について果たしてきた役割を、このグローバリゼーションなどと言われている時代に、何が担うことになるのかという問題です。日本では「市場原理」がこれにかわるなどと気の利いたつもりで発言する人がいますが、アメリカでも、またヨーロッパでもそんな馬鹿なことをいう人は一人もいない。[…]

日本の大学がみずから導入すべき「変化」は、歴史意識を踏まえたものでなければいけないと思っています。私は必ずしもアドルノの徒ではないし、むしろ彼には批判的ですらあるのですが、少なくとも彼がホルクハイマーと共に提起した後期資本主義社会における「啓蒙の自己崩壊」という概念くらいは踏まえておかないと、大学の大衆化といったところで、善意の連帯で事態が改善されるかのようなきわめて抽象的な議論に陥ってしまいます。ところが、文部科学省が口にする「大学改革」には、今がどういう時代なのかという歴史意識が完全に欠落している。だから、審議会などでも、現状に対する泣き言めいた悲憤慷慨と、「外国ではこうだ」といった類の歴史意識を欠いた抽象論ばかりが話題になるのです。

私が言う「第二世代の大学」[=19世紀に制度化された近代的な高等教育機関としての大学]を「第三世代の大学」[=21世紀の大学]に変化させようとするときに、何がいかなる理由で必要か、そうした前提がまったく議論されないのです。本来なら、国民国家に対するきわめて19世紀的な、福沢諭吉的ともいえる距離の取り方による国立、私立という大学の分け方が今後も維持されるべきかどうかという議論から始まらなければいけない。私は、この区別は、「第三世代」の大学ではほとんど意味を持たなくなると思います。しかしそういうと、「それはひとまず措いておいて、危機にある(と理由もなく判断される)国立大学をどうするか」という議論ばかりに話が集中してしまう。[…]

しかし、そんなものは、現在の大学が必要としている変化でもなんでもない。》(11‐12頁)

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