こんにちは。ML01096の続きです。
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今年(2002年)の6月、ようやくハンス・ブルーメンベルクの大著「近代の正統性」(ウニベルシタス)の邦訳が4年がかりで完結した。フランスでは1999年に一巻本で仏訳が出たから、まあほぼ同時期といっていい。
それにしても、1966年に初版の出たこの本の翻訳がなぜここまで遅れたのか、翻訳が出た今となっては全く理解しがたい現象なのだが、まあ思想の歴史はこういった例に事欠かない。ヘーゲルの『精神現象学』の完訳版がフランス語で出たのは1941年、原書出版(1807)から優に一世紀以上経っているのである。
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フランスにおける受容の遅さについては前回チラッと触れましたが、ブルーメンベルクの『憂い事は川をも渡る』(仏訳1990)についての次のような「書評」(これを書評と呼べるとすればですが)が端的にそれを物語っています。
「密やかさを愛し、意図的に大衆から遠ざかった哲学者、ハンス・ブルーメンベルクは、彼の諸著作を未だ読んだことはないが、彼の名を聞いたことはあるという人々の好感という富をかちえている。「世評」では、彼は現代ドイツの重要な思想家の一人であり、「世評」では、彼の哲学的な思索には彼の慎ましさと共に並々ならぬものがあり、「世評」は彼について様々なことを語っている…だがこの『憂い事は川をも渡る』と共に、「世評」は確信に変わる。」(チエリー・パコ、『キャンゼーヌ・リテレール』誌)
ドイツ語を読めないに違いない評者の苦心ぶりがうかがわれるこの一文から、90年代当初までのフランスにおける受容の様子を想像することはさほど困難ではないでしょう。
さて、著者やこの著作自体についての紹介は邦訳を参照していただくことにして、ブルーメンベルクの膨大な著作の中から仏訳されている他の幾つかの著作を紹介しておきましょう。(あらかじめ元ネタをばらしておきますと)
http://www.arche-editeur.com/Catalogue/B/blumenberg2.htm
『観衆のいる難破』(仏訳1994、邦訳)
驚くべき博識と、それでいて反体系的な意表を突く方法論を用いるハンス・ブルーメンベルクは、すでに数多くの著作を発表している。本書は、ブルーメンベルクの独創的な研究手法の一つである「隠喩学」(メタフォロロジー)、すなわち形象をあらゆる概念的な思考の根として読み解いてみせる手法によって、様々なテクストに登場する「難破」を人間存在とその危機、その限界の比喩として再解釈する。難破は、遠くにいるのであれ、巻き込まれているのであれ、それを見ている者にとってしか意味をもたない。人間という冒険の失敗、歴史の無秩序という見世物に魅せられているのであれ、思いをめぐらせているのであれ、それを見ているものにとってしか意味をもたない。ブルーメンベルクは比類のない鮮やかな手つきで、難破について考察し、意味をずらし、また回帰させた者たちを召喚しつつ、難破の形象の歴史とその豊かさを描き出す。ルクレチウスから、ヴォルテール、ゲーテを経てニーチェに至るまで、ある形象の意味の軌跡へと私たちを誘ってくれる。(この説明だけ読むと、比較文学系なんかに割にありがちなアプローチという気がしますけどね。)
(続く)
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