Saturday, October 05, 2002

ブルーメンベルク補遺(下)

 ブルーメンベルクの代表作『近代の正統性』については、村上陽一郎の好意的だけれど内容のない書評以外に書評を見かけませんでしたが、まああれだけの大作ですからね・・・

 というわけで、幾つか読んだ中からJean-Claude Dussaultという人の平均的な「否定的」書評を一つだけ紹介しておきます。



 思想の発展というのは、ずいぶんと騒がしい代物である。『近代の正統性』の中で、ハンス・ブルーメンベルクは、哲学的思索の二千年の歴史を取り上げて、ヘーゲルやシュペングラーの壮大な歴史哲学的総括を思わせる一つのテーゼに押し込めてみせる。
 その長い論証過程は確かに恐るべき文献渉猟に裏打ちされてはいるが、配列・構成はどことなく行き当たりばったりに思われ、あたかも本書の最終形態は、著者ではなく他の誰かが決定したかのようである。
 例えば、「理論的好奇心」を扱う第三部は、「西洋人は真理の探究において自己主張を獲得しようとしているのだ」という主要なテーゼから脇に逸れているように見える。
 それにそもそも、本書冒頭では、歴史の時間の流れに沿ってこのテーゼを論証していくと予告されており、読者は当然それを期待するのだが、実際の論証はむしろ幾つかのテーマに沿って展開されていくので、この見かけのズレをきちんと理解しようと思えば、読者には西洋思想史についての百科全書的な知識が要求されることになる。
 なぜ第二部で、デカルトによってなされた理性革命を見届けた後で、第三部で、アウグスティヌスやテルトゥリアヌスやその他の教父たちのあまりに微細な神学論議に戻っていき、場合によっては古代哲学へ乱入していかねばならないのか?
 ブルーメンベルクは、二百頁以上にわたって、幾度もさまざまな形で西洋文化を揺り動かしてきた議論、すなわち好奇心についての議論を検討する。諸対象と外部世界に関する研究は、どこまで推し進めるのが「正当」なのか?科学的探究の限界とは何か?
 本書は、中世の思考から近代の思考への移行を画するエンブレマティックな二人の人物を扱って終わる。ニコラウス・クザーヌスとジョルダーノ・ブルーノである。一方は、スコラ学に新たな思考の可能性を認めることでそれを救おうと試みる最後の人物として、他方は、この移行過程において、神的な内在性をあらゆる存在に広げ、火刑台の上でなおキリスト教的な贖いの神から目を背けることで、すべてを転倒した人物として。
 本書はときにきわめて面白い、しかし多少éreintantな本であり、哲学に対する興味と時間的な余裕をもつ読者にしかお薦めできない。

***

 最後に、ブルーメンベルクで検索しているうちに非常に興味深いサイトに出会ったので、すでにご存知かもしれませんが、ご紹介しておきます(ssさんの本の書評もありましたよ。ちょっと辛辣ですが…)。彼らの掲示板でのやりとりの幾つかも必見。誰が主催してるんでしょうね?
http://members.tripod.co.jp/studia_humanitatis/newbooks.html

 ヴァッティモの『信仰』を取り上げての「最近は、哲学の中に神学の用語や着想を導入する傾向が比較的多く見受けられるようになってきた。」といった発言の的確さや、「ブルーメンベルクは哲学の側よりは神学の側からのほうがアプローチしやすい側面もあるかもしれない。古代・中世・近代という垣根を作ってその枠の中で安閑としているような哲学研究者には、所詮手の出せない相手なのだ。」といった発言に垣間見える主催者の指向には共感を覚えます。

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