Sunday, October 06, 2002

対立の共同体(2)

 これまた今年一月初旬に「翻案」したものですが、共同体の問題を考える時
に、欠かせない本の一つだと思います。
 
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2*『無為』から『明かしえぬ』へ(pp.36-43.)

 ナンシーが『無為』において、社会の「死刑」としての共同体の「作動」(oeuvre)を明らかにし、それと相関的な仕方で、無限の交通(コミュニケーション)の本質を保存しつつも、作動するのを拒むような共同体、すなわち無為の共同体の必要性=必然性を確立する、と主張していたまさにその地点にこそ、明かしうるものではない秘密、「明かしえぬもの」がある、とブランショは警告しているのではないか。

 「無為」に対抗して置かれた「明かしえぬ」という形容詞が考えるように促しているのは、無為(désoeuvrement)の下になお作動(oeuvre)が、明かしえぬ作動が存在しているということである。無為の共同体、つまり共同体なしに存在する者たちの共同体(我々すべて)は、「共同-で-あること」の秘密をベールを脱いだ姿で曝け出すことは決してなく、したがって(無為の共同体が「共同的なもの」そのものであるにもかかわらず、それだからこそ)交通することもない。 

 無為の共同体はむしろこの秘密を激化させ、秘密へと接近することの不可能性ないしは禁止、さらには制止、羞恥心(これらはすべてブランショのテクストに表れているモチーフである)を強調する。「明かしえぬもの」とは「言語を絶するもの」ではない。まったく逆に、「明かしえぬもの」は、明かすこともできそうでいて決してできない者たちの親密な沈黙のうちに絶えず語られ、自らを語るものである。ブランショは、この沈黙のことを、この沈黙が言わんとするところを告げようとしたのではないか。

 親密さそのものに他ならない交通や共同体の親密さ、いかなる無為よりも深く隠された親密な「作動」のような親密さは、沈黙を可能にし必然的なものにする。と同時に、この親密さが沈黙の中に溶け去ってしまうことは決してない。神秘的な交流の共同体を否定するだけに留まっていたナンシーに、ブランショが再考を促したのは、共同的なものの秘密(共同の秘密ではない)のほうに向かって、この否定性よりさらに先を考えることではなかったか。



 だが、伊語版序文は共同体の問題を考え直す機会をナンシーに与えた。あたかもブランショ自身が「『明かしえぬもの』に用心なさい」「共同体のあらゆる前提に、たとえそれが『無為』という名のものであっても、気をつけなさい」と言っているかのように、あるいは「『無為』という語の示唆するところをもっと深く追究なさい」と言っているかのように、この無為は作動の後に、けれど作動からやってくる。

国民国家や政党国家、普遍的教会(カト+プロ)や自治独立教会(東方正教会)、議会や閣議、人民や会社組織や同胞団体が望むような方向で、社会が自ら作動するのを制止するだけでは十分ではない。常に、常にすでに、共同体の「作動」があるということを同時に考えるのでなくてはならない。個的であれ、種的であれ、あらゆる実存に常に先立っていたということになるであろう共有=分割の操作が常にすでに存在しているということ、それなしにはいかなる現前もいかなる世界も決して存在しえないような交通・伝染が常にすでに存在しているということを考えねばならない。

 というのも「現前」も「世界」も共-存在ないし共-帰属(たとえこの「帰属」が共同-で-あることへの「帰属」にすぎないとしても)という含意を伴っているからである。我々(我々すべて一緒に、そして一緒でありながら区別された)の間にはすでに、ある共同的なものの共有=分割があったのである。共有=分割と言っても、それ以前に共同的なもの自体が存在していたわけではない。共有=分割することによって共同的なものが存在するようになるのであり、実存が自らの固有の限界への開示であるという意味で実存そのものに触れるようになるのである。

 このような共同的なものの共有=分割こそが、我々を分かちつつ、我々を近づけつつ、決定的な未決定のうちにいる「我々の間に」隔たりによって近接性をつくり出しながら、我々を「我々」たらしめたのである。「我々」というこの集団的・複数的な主体は、決して「自分の固有な」声を見出さぬよう宣告されているが、それこそがこの主体の偉大さの証しである。(続く)

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