Wednesday, October 09, 2002

対立の共同体(4)

こんにちは。

例えば、イスラエルの市民運動に関する今回の田中ニュース(最後の民族性に
関するくだりを除けば、素晴らしい!)を次のニュースと併せ読むこと。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20021007-00000069-mai-soci

3*『明かしえぬ』以後

 『無為』刊行後、『明かしえぬ』が現われたのをはじめとして「共同体」のモチーフは徐々に注目を集め、共産主義的ないし共同体主義的ないかなる計画ももはや支えることのできなくなっていたこの領域に新たな地位を与えることが緊急の課題である、と認知された。

 新たな地位を与える、別の呼び名で呼ぶということは、もはやその名では呼ばないということ、共同体が自らの実質となり自らの価値となるというトートロジーから抜け出すこと、さらには使徒たちの原始共同体、教会、修道会、聖体拝領(コミュニオン)などのキリスト教的な含意(バタイユの来歴はこの点
では疑いの余地はない)の拘束から自由になることである。

 こうして『無為』と『明かしえぬ』の刊行後、共同体を主題化し規定しようとする一連の試みが現れてきたわけである(アガンベン、ランシエール、ラクラウとムフ、やや遅れてフェッラーリ、次いでエスポージトらによる、これらの試みは今なお米国を中心として継続されているが、それは新たに鋳直された「共同体主義」が問題となる、まったく異なる文脈においてのことである)。



 だがこれまでのところナンシーは、「共同体」という語と真正面から取り組むどころか、むしろ逆に、徐々に「一緒に-いること」「共同-で-あること」そして最終的には「共に-いること」といった無愛想(disgracieuses)な表現によって「共同体」という語を置き換えようとしてきた。この移動、諦め(一時
的なものにすぎないとしても)無愛想な語には無論、理由があった。

 「共同体」という語を用いることによって様々な危険が惹起されることは目に見えていた。どうしようもなく実質と内面性に満ち満ちた響き、避けることが困難なキリスト教的ニュアンス(精神的、同胞的、霊的な共同体)、あるいはもっと広く宗教的なニュアンス(ユダヤ人共同体、ウンマ)、「民族」を裏付けにしたと称して「共同体」という語を用いる、などなど。必要ではあるが、未だほとんど解明されていないこの概念を強調することは明らかに、共同体主義的な、ファッショ的ですらある衝動を蘇生させてしまう惧れがあった。ナンシーが最終的に「共にavec」の概念に仕事を収束させていくことを選んだ
のは、そのためであった。

 共同体の「共co-」とほとんど識別不可能であるとしても、この「共に」は、近さと親密さの核心において「共」よりはっきりとした隔たりがあることを示している。「共に」は乾いていて(sec)、中立的である。聖体拝領的な融合でもなく、微粒子化的な分裂でもない、ただある場所を共有=分割するだけ、せいぜいのところ接触。ブレンドなしに一緒にいること(この意味で、ハイデガーにおいてペンディングにされている「共存在」の分析をさらに推し進める必要がある)。



 今日(2001年10月という日付を強調しておこう)、荒れ狂う情念のあらゆる特性を備えた出来事が、世界中に、とりわけ西洋世界とその周縁、その内的・外的な境界(まだ外的なほうが残っているとしての話だが)に広がりつつある。全能の神であれ「自由」であれ(こちらも劣らず神憑り的である)、情念
の様々な形象が、対立的な身振りで、現在の世界の動向が示している周知のあらゆる恐喝・搾取・人心操作を覆い隠すと同時に暴露してもいる。だが仮面を剥ぎ取ることはまず必要な作業ではあっても、それだけでは十分ではない。情念的な諸形象がただ偶然に空いた場所を占めに来たわけではないということをも考えねばならない。この空いた場所こそ共同体の真理の場所に他ならない。

 荒れ狂う神への呼びかけと、"In God we trust"といった表明は、「一緒に-いること」の必要・欲望・不安を、対称的な形で道具化している。つまり英雄的な身振り、壮大なスペクタクル、飽くことを知らぬ怪しげな企みに再び利用しているのである。その一方で、どちらも秘密を暴くとしながら、その欠片す
らも隠し通そうとする。実際、どちらも、まさに「神」というあまりに明かしすぎている名のもとに、この秘密を隠しているのである。我々としては、ここから考え始めなければならない。神も支配者もなく、共同的な実体もなしに、共同体の、「共に-あること」の秘密をどう考えるか。

 共同体の無為(ある秘密を洩らすことなく共有=分割する可能性、まさに我々に漏らすことなしに、我々の間である秘密を共有=分割する可能性はそこにある)について、これまでのところさして考えを推し進めてきたとは言えない。だが、権力や利潤といった化け物じみた争点のために相対立している、これまた化け物じみた思想(ないしイデオロギー)に直面して、一つの仕事があることは疑いえない。いかなる実体にも頼ることなく、「共に-あること」という考ええぬもの、定めえぬもの、論じえぬものを敢えて考えること、である。この仕事は、経済的なものでもなければ政治的なものでもなく、いずれは経済的なものと政治的なものとを共に作動させるものである。

 我々が現在目にしているのは、「文明間の戦争」などではない。

(ひとまず完)

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