ナンシーの『対立の共同体』翻案(ML1076、1197)の続きです。
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では、「我々」は何を共有=分割しているというのか?おそらくは「明かしえぬもの」を、すなわちブランショが『明かしえぬ』の第二部によって、そして『無為』という理論的なテクストに関する考察とデュラスの『死の病』という愛と死の物語に関する考察を合わせて『明かしえぬ』を構成することによって示そうとしているものを共有=分割しているのであろう。
かつてのナンシーには、ブランショがこの二つのテクストを対照的なものとして区別しているように思われた。『無為』が否定的な考察に、あるいは虚ろな「無為」に留まっているテクストであるのに対して、『死の病』は「有為の」ではないにしても、限界の経験(愛と死の経験、限界において開示される)を共有することで密やかに操作される(明かしえぬ)共同体に道を開くテクストである、と。
だがおそらくは、「共同体」の本質なき本質に至るこの二つの道はどこかで、『明かしえぬ』の一部と二部の間のどこかで、社会的-政治的な領域と情念的-私的(intime)な領域の間のどこかで出会うはずだ、とブランショは言っているのではないか。複数的な実存(誕生、分離、対立)と単独性(死、愛)を同時に可能にする強度の、奔出の、喪失・放棄の謎をその「どこか」で考え抜かねばならない。たとえ誕生と死、愛と戦争には常に「明かしえぬもの」が含まれているとしても。
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「明かしえぬもの」とは恥ずべき秘密を指す。「明かしえぬもの」が恥ずべきものであるのは、それがsouverainte(主権/至高性)とintimite(親密さ/私生活)という二つの可能な形象のもとで、「明かしえぬもの」一般としてしか開示されえないpassion(情念/受苦)を関与させているからである。「明かしえぬもの」の情念が正体を告げるとすれば、その告白は耐えがたいものとなろうが、同時にそのような告白は、この情念のもつ力をも破壊してしまうことになるであろう。
「明かしえぬもの」の情念とは、それがなければ私たちはいかなる「一緒に-いること」、つまりは「存在すること」そのものをもすでに断念してしまっていたであろうものである。この情念がなければ、底なしの慎み深さのうちに引きこもった至高性と親密さに従って、我々を世界の中に生み出すものを断念
したであろう。なぜなら我々を世界の中に生み出すものとはまた、我々を分離、有限性、無限の出会い(そこで各々が他者と、したがってまた自己と、他者の世界としての世界と、気の遠くなるような接触を続ける)の極へと一挙に運び去るものでもあるからである。我々を世界の中に生み出すものは、すぐさま世界からあらゆる根本的あるいは最終的な単一性を奪い去って、世界を共有=分割する。
「明かしえぬもの」とはしたがって、羞恥心のなさと羞恥心とを見分けられなくなるほどまでに混交した語である。羞恥心がないというのは、ある秘密を告げ知らせてしまうからであり羞恥心があるというのは、その秘密は秘密のままに留まるであろうと確言するからである。
押し黙った者のみが、このような仕方で押し殺されるものを知っている。だがこのような知は、それ自身交通の知であるにもかかわらず、伝えあうべきものではない。交通の知の法とは、互いに伝え合わないということであるに違いない。なぜならこの法は伝達可能なものの領域に属してはいないのだから。しかし、にもかかわらず、交通の知の法は、言葉で言い尽くせぬものではない。それはあらゆる言葉を開く。
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