先週10月9日土曜未明、ジャック・デリダが死んだ。彼の哲学における生と死の問題、哲学と神学の関係、目的論、技術、動物性、性差の問題。いかなる偉大な哲学者にも言えることだが、同時代より早く、同時代より遅く、同時代から隔絶して、同時代と「斜めの」関係を結んでいた哲学者。
もう一度技術の問題に戻ろう。
Jean-Pierre Séris, « Bergson et la technique », in Bergson. Naissance d’une philosophie, Acte du colloque de Clermont-Ferrand 17 et 18 novembre 1989, PUF, 1990 ; La technique, PUF, 1re éd., repris dans la coll. « Philosopher », 2000.
専門家でないものが時として斬新な視点から大きな帰結をもたらすことがある。「travail労働・仕事」という概念の多様な用法を検討することによって、ベルクソンにおける技術の問題の核心に迫ろうとしている、このジャン=ピエール・セリスの場合はまさにそれである。
セリスは、ベルクソンにおける「仕事・労働」の比喩の重要性を強調するために、まず三つの予備的考察から論を始めている。
1)ベルクソンにおける「労働」の二つの意味。ベルクソンとプロティノスにおける「イマージュ」の様々なカテゴリーを比較したモセ=バスティッドによれば、ベルクソンにおいては、大方の予想に反して、生物学から借りられたイメージよりも、技術techniqueや手仕事métiersから借りられた(また同様に筋肉印象impressions musculairesから借りられた)イメージのほうがはっきりと優勢を占めている。ベルクソンはまた、きわめて頻繁に「仕事travail」や「仕事をするtravailler」 といった語を用いている。しかも、自分の哲学的な活動や自分自身の著作を指すためのみならず、これらの語の実に多様な含意を巧みに駆使しつつ、意義深い形 でこれらの語を用いている。「仕事」は主に、知性の活動を指す否定的な用法と、持続・生・自然・芸術などの創造的発明的練り上げを指す肯定的な用法があ る。後者は、「分かちがたく結びついている前者に、自分のリズムを押し付ける」「成熟ないし創造という内的な作業=仕事」である。
こ こで「しかし結局のところこういった語彙はすべて比喩的に用いられているだけだ。ただの比喩にすぎない」というありうべき誤解を反駁しておかねばならな い。「絶対的に新しいものの持続的な練り上げ」や「作業」といった語彙が、語源学的なつながりといういささか迂遠な関係によって生産的な仕事を喚起すると いうだけではなく、機械論と目的論を擬人主義的だとして同時に退ける態度を超えて、「仕事」という語自体がベルクソン哲学の中心において強く必要とされて いるのである。
仮に隠喩があるとしても、それはむしろ反対の方向にである。すなわち、むしろ道具に関心を寄せる「Homo faber」 の仕事そのもののうちに、分業され、目的論化され、勤勉な、骨折りの多い仕事のうちに、機械の操縦者や設計者の作業のうちに、エネルギーや疲労や怠惰と切 り離しえないある経験が顔をのぞかせているのである。そしてこの経験は、ただ創造のベルクソン的哲学のうちでのみ、その真の意味、その存在論的意味を明か してくれる。
だ が我々は、セリスのように、「仕事」という語彙はただ単に比喩的に用いられているのみではない、もっと重要な意味においても用いられている、というだけで は満足しない。問題になっているのはまさに、ベルクソンにおける「比喩」の哲学的な地位なのである。そして、これはひいてはフランス現代思想における「比 喩」「アナロジー」の地位というきわめて重要な問題へと(ソーカル&ブリックモンは無論のこと、ブーヴレスとも異なる形で)つながっていくのである。
2)ベルクソン哲学はこれまでたびたび創造の哲学une philosophie de la créationとして捉えられてきた。だが、むろん連続性continuité、自発性spontanéité、奔出する跳躍élan jaillissantと いった、ベルクソンが生の進化の主特徴を捉えるために用いた語だけでは、自由な活動、創造的なエネルギーをそのすべての作業において、そのすべての獲得し た広がりにおいて描くには十分ではない。そもそもベルクソンは生のうちに創造の第一原理を見て取るだけで満足するような物活論者ではない。したがって動詞 「生きるvivre」は、「仕事をする、作業するtravailler」へと引き継がれねばならず、「仕事、作業travail」は「生vie」という語と競合関係に入らねばならない。
3)ベルクソンが「仕事・労働」という語を用いていた当時の知的文脈。①スミスやリカルドー以来の経済学の文脈、②H.Milne-Edwards以来の生理学の文脈、③デュルケム社会学の文脈、マルクス以来ジョレスに至るまでの社会主義運動の文脈、④ゾラに代表される文学的表現の文脈などがある。「仕事・労働」に、生産と再生産、
生一般と社会生活一般が交差する地点を見て取ることは、ベルクソンに限らず、当時一般的であった。
少しだけ詳しく見ておくと、経済学から生理学へ輸入された後で、分業概念はまず、デュルケムによって「社会的分業division du travail social」として、すなわち「機械的連帯」から明確に区別される「有機的連帯」として捉えられる。Milne-Edwardsの発見(有機体における仕事の生理学的分担)には、とデュルケムは書いている、
「分業の作用領野を著しく 広げると同時に、無限に遠い過去のうちに分業の起源を求める態度を退ける効果があった。というのも、生理学的分業は、生が世界に到来したのとほぼ同時とい うことになるからである。もはや人間の知性と意志のうちにその根を持つのはただ社会的制度ばかりではない。生物学的現象全般の諸条件を、有機化=組織化さ れた物質の本質的な諸特性のうちに求めねばならないのである(?)。分業はもはやこの一般的なプロセスの一個別形態として現れるにすぎず、諸社会は、この 法則に適合しつつ、はるか以前に生じ、生の世界全体を同じ方向へ連れていくある流れに従属しているように思われる」。
だ が、デュルケムは同時に、社会的分業は、「ある本質的な特徴によって」生理学的分業から区別される、ということを示す。「有機体にあっては、各細胞は決 まった役割を担っており、それを取り替えることはできない。社会にあっては、諸々の仕事は決してそれほど固定的な形で配分されているわけではない[…]。 労働がさらに分担されるにつれて、この柔軟さと自由はますます大きくなる」。無論、この分業というテーマは、ハーバート・スペンサーにあっても進化の事実 という形で見出される。
いずれにせよ、仕事・労働という概念は、ベルクソンにあって、「努力の哲学」のためにかなりの拡張を受けることになる。
以上のような三つの予備的考察を経て、セリスは、順次「労働」概念のきわめて異なる二つの側面を見た後で、その連関を見ていく。
1)労働はまず、その中で用いられ展開される「努力effort」、エネルギーの消費、苦労、骨折り仕事(besoigne)、労働(labeur)を含意する。
2)労働は次いで「媒介médiation」「迂路détour」という次元で発展する。Comme le dit une locution latine « Labor improbus », le travail maine la ruse.あるいはただ単に「道具outil」。労働は、諸対象(物であれ記号であれ)の配置を修正しそれらを再配置する作用を伴う。この製作的再配置は、あるプランに合致した、ある人工物の骨の折れる実現に到達する。
1)最低限の努力、最低限のエネルギー消費、最低限の辛抱強さ=恒常性(constance)、最低限の覚醒状態=警戒(vigilance)、最低限の注意ないし緊張がなければ、労働はない。この意味で、「努力」は、仕事・労働の最小限の人間学的前提(présupposé anthropologique minimal du travail)である。まさにそれゆえにle travail fatigue.であり、「仕事をする・労働する」とは、絶えずこの疲労を乗り越えていくことに他ならない。労働の核心部分は、ベルクソン哲学にあっては、引き受けられるより前に課されており、選び取られるより前に要請されている。労働とは、必要と結びついた強制の事実なのである。
ベルクソンは、メーヌ・ド・ビランやラヴェッソンの努力の哲学の遺産継承者である。ベルクソンのより直接的、より明示的な参照先としては、ウィリアム・ジェイムズ(例えば、彼の1880年の論文「努力の感覚」)やデューイ(例えば「努力の心理学」)を挙げることができるであろう。
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