ハイデガーが引いていた逸話とは、アリストテレスの『動物部分論』に見出されるものである。
《ヘラクレイトスについてひとつの言葉が語り伝えられています。これは彼の前に押しかけてゆこうとした他所の人たちに、彼がいったという言葉です。人々が彼に近づきながら見ていると、ヘラクレイトスはパン焼き窯で身を暖めています。彼らは驚いて立ち止まりました。しかもとりわけ彼らが驚いたのは、ヘラクレイトスが彼らに向かって「ここにもまた神々は在(おわ)します」と語って、ためらっている人たちを室内に招き入れようとしたからであり、また彼らにそのような気を起こさせたからです。》
偉大な哲学者は絶えず何かしら驚嘆すべき境位に身を置いているはずだと勝手に信じ込んだ人々が、ヘラクレイトスの住まいにまで押し掛けてきたものの、彼の住まい/佇まいを一目見て、失望する――ここにもまた、前に述べた「気づかないことへの気づき」がある。直ちに踵を返そうとする客人たちの顔に裏切られた好奇心を読んだヘラクレイトスは、彼らに再び、しかし今度はより哲学的な好奇心を生ぜしめようとして、こう言うのだ、「ここにもまた」と。ハイデガーはこの一句を次のように解釈する。
《「ここにもまた」、パン焼き窯のそばに、このありふれた場所に、そこはいつも、どんなものでも、どんな状態でも、どんな行為でも思考でも、親しくまた寛げて、すなわち心安く、「またそこにもすなわち」、心安さをめぐって、「神々が在す」のです。すなわちヘラクレイトスは「(心安い)居所が、人間にとって、神(という心安くないもの)の生成のための広場である」というのです。》
ハイデガーはパン焼き窯の間近まで来ながら、その傍を素通りする。たしかに彼は、「倫理」を「社会的動物としての人間のありよう(倫)を筋道だてて考える(理)」何かと見なすだけでは満足しない。ethicsとは、ギリシア語のēthos(習俗、性格)に由来し、個人的には「よく生きること」の実現、社会的には人間関係一般を規定する規範や原理の確立を目的とする学問だ、というだけでは満足しない。
「エートス(ethos)は滞在、すなわち住まいの居所を意味する」とし、「ethosという語の基本的な意味に従って、倫理学(Ethik)という名称が、人間の居所をよく考えるということを意味するなら」と語っていたのは、間違いなく『ヒューマニズム書簡』である。
だが、まさにその『ヒューマニズム書簡』において、「心安いもの」「ありふれたもの」は、存在に酔える哲学者たるハイデガーの視線の中では、あくまでも心安くないもの、すなわち存在の生成のための広場、「まさしく日常的なありふれた場所」にすぎない。「パン焼き窯のそばにいながら、パンを焼こうともしない」ヘラクレイトスを見て、ハイデガーはこう言い切るのだ。「彼は体を暖めているだけです。こうして彼は、彼の生活のまったくの困窮を表しています。寒そうに縮こまっている…」。
しかし、ヘラクレイトスの視線の先にあったのが、タレスのように星々ではなく、まさしく「心安いもの」「ありふれたもの」「日常的なもの」そのものであったとしたら、どうであろうか。そして、タレスの転落――accidentの語源accidere(起こる)はcadere(落ちる)に由来する――と同様に、ヘラクレイトスの住まいと佇まいもまた、理論的なものの荘重さを転落させ、しかしそれと同時に、「気づかないことへの気づき」によって理論と実践の関係の核心へと私たちを近づけてくれるものであったとしたら、どうであろうか。存在の思惟へと上昇し高揚していくハイデガーの「根源的倫理学」に抗して、それを転落させ、理論的な思考そのものの方向性を転回させ、日常的なものの思惟へと私たちを手繰り寄せるéthique accidentaleとでも呼ぶべきものがあるのだとしたら。
ここで倫理学が哲学の対立項になっていないのは明らかである。繰り返す。哲学が驚きから始まるとすれば、倫理学は失望から始まるのではないか。そして倫理学とは哲学の対立項ではなく、その折り返し、襞、転回そのものである。
マシュレが、ヘラクレイトスのパン焼き窯(に関するハイデガーの解釈)とサルトルのアブリコット・カクテルを対置することによって、『ささやかなこと。日常的なものの轍と波立ち』で描き出そうとしていたのは、「日常的なもの」というささやかで退屈な出来事の連続がいかに哲学の手をすり抜けていくか、しかし哲学がいかに執拗に追いすがろうとするか、であった。
私たちはこれを受けて、『ヒューマニズム書簡』における「倫理学」の位置と動きに注目することで、ハイデガーに拠りながら、ハイデガーの「根源的倫理学」にéthique accidentaleを対置する。ethosが滞在、住まいを意味し、ethicsが人間の居所をよく考えることであるなら、日常生活の現象学こそがそれにあたるのでなければならない。
ところで、卑近な日常生活の重要な一断面、日常を制度づけるものは、ハイデガーだけでなく、現象学だけでもなく、これまでのところ哲学自体が扱いかねているとは言えないだろうか。
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