Thursday, April 16, 2009

結婚の形而上学とその脱構築に向けて(1)

哲学が驚きから始まるとすれば、倫理学は失望から始まる、と言えないだろうか。

哲学の祖タレスは、夜空を見上げ、天体の運行(驚嘆すべきものextra-ordinaire)を観察するのに熱中するあまり、井戸に落ちてしまったという有名な逸話がある。トラキア出身の侍女はそれを見て、「ご主人様は熱心に天のことを知ろうとなさるが、目の前のことや足元のことには気がつかない」と笑ったというのである。

「哲学者は世間知らず、机上の空論家」とはよく言われることだが、実は、博識なハンス・ブルーメンベルク『トラキアの侍女の嗤い』(1987年)で思い起こさせてくれたように、プラトンからニーチェに至るまで、哲学者たち自身が好んでこのタレスの逸話を語ってきたということはあまり知られていない。この「気づかないこと」への「気づき」、特異な――理論的知そのものの起源が問題になっているのだから――「無知の知」は何を意味するのだろうか。

哲学が躓くまさにこの地点で、倫理学――あるいはドゥルーズがスピノザに関する小著の副題とした用語を借りるなら「実践哲学」――が胎動を始める。しかし、哲学と倫理学は対立する二項ではない。倫理学とは哲学の折り返し、襞、転回そのものである。



ハイデガー『ヒューマニズム書簡』の中で「存在の真理を、明在するものとしての人間の原初的な要素と考えるような思考」を「根源的倫理学」という語で名指しつつも(ナンシーがこの語を注釈している)、次のように述べている。

≪存在の真理を問い、その際、人間の本質の居所を、存在から、そしてまた存在へと規定する思考は、倫理学でもなければ、存在論でもありません。≫

存在への回想、それは、理論的でも実践的でもない、そんな分別めいた区別以前に生じる思考だ、というお得意のハイデガー節である。しかし、私たちは、ハイデガーが基礎存在論、さらには「存在への思惟」の高みへと
荘重に目をやる、その直前の挙措に注目したい。彼は、「倫理学」を根底から考え直すべく、第一の逸話ほど有名ではないもう一つの逸話を引き合いに出していた。

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