Wednesday, February 22, 2012

無用の用、でもなく――『トマト大学太平記』を読む(2)

奥本大三郎『トマト大学太平記』(幻戯書房、2011年12月)の第一の長所として、大学教員の生態誌たりえていると言ったが、著者自身が大学教員であるためか、同種の著作と見られもしよう筒井康隆の『文学部唯野教授』(初版1990年)よりも、大学とは何か、学問とは何か、学生はどうあるべきかに関する思考はもう少し実態に寄り添っているように思う。この点を今少し補足しておこう。

「先生、私たち何のためにフランス文学なんか勉強してるんですか」
「彼氏が言うんです、文学部なんか出たって何の役にも立たないじゃないかって」(いずれも第2章「喋るエレベーター」69頁)




古くて新しい問題である。新しいというのは、この問いが今や大学全体、学問の全領域を覆い尽くしつつあるという事態を指してのことである。

私自身の所論と、よくある「無用の用」論との違いをはっきりさせておきたい。それはおそらく、脱構築的所作と批判哲学的所作との見極め難い境界線を探る試みと無関係ではないだろう。

文学は(哲学は、あるいは人文学一般は)、役に立たないからいいのだ、役に立たないからこそ貴いのだ、という「無用の用」論は、ある種の貴族主義的・エリート主義的身振りを宿命的に背負っている。

カント的「哲学と大学」論は超越論的である。実際的な国家権力と結びついた上位学部(現在でいえば医学部や法学部)に対して、哲学部だけが「権力なき力」「忌憚なき批判の力」をもち、特権的な位置にいる。

私の考えでは、大学も人文学部も無条件ではない。哲学は売れる。それも偶発的・事後的に売れるのではなく、根本的・原則的に売れるし、売る「営業」的努力をすべきである。古典や訓詁学に閉じこもるべきではない。

ただし、大学は企業でも専門学校でもない。哲学はマーケティング、営業部ではない。売れ筋やら、アクチュアリティを追いかけすぎるべきではない。

現代思想の巨人たちの翻訳や解説で売れることと、グーグルなどの先端的な技術現象や大災害などの社会・自然現象に関する考察で脚光を浴びることの間に、目くじらを立てるほどの違いはない。それらはどちらも「アクチュアル」の呪縛に、とても健全に、縛られている。

大学の時間は、アクチュアルでもなく、時代遅れでもない、「反時代的」(イナクチュエル)なものである。哲学者(文学者)の時間は、ヘーゲルの日曜日(祝祭としての大学)でもなければ、デリダの週日(ウィークデー)(学的真理探究の純潔な聖域としての大学)でもない、常にそのあいだ、「土曜日」的なものである。



したがって学生には断固として言わなければならない。哲学や文学の古典を買って、読むべきだと。

むろん非常に深刻な、同情の余地がある場合もあるにはあるが、たいていの場合、「学生には本を買う金はないけれど、ロックコンサートのチケットを買う金ならある。そして本を読む時間はないけれど、チケットの行列に徹夜で並ぶ時間ならある」(第6章「洋食の話」180頁)のだから。



大講義室での授業ならずとも、学生は教師と目が合うと、あわてて視線をそらす。

《いや、あわてて、ではない。長距離列車に乗って長旅にうんざりしている乗客が、車内販売のワゴンを押してきた売り子と目が合って、「間に合ってます」とでも言いたげに目をそらすのにそっくりである。》(第4章「宿り木」118頁)

「ソコニウッテルモノハ、ナンニモホシクナイヨー」、知識の押し売りは迷惑だ、と。だが、「すぐ役に立つ」「すぐ使える」知識がほしいという彼らの欲望をこそ、正面からの「強制力」(force)ではなしに、斜めからのソレル的な「暴力」(violence)で挫かねばならないのだ。

「我々はつけっぱなしのテレビだとさっき言われましたがね、それで言えば、つい、教育テレビになってしまうんですね。ところが、テキはお笑いかバラエティ番組しか見たくないんですよねえ」(同上、121頁)

学生たちは表面的な抵抗を示すことなく、心の中で静かにチャンネルを変え、あるいはスイッチを切っている。スイッチを入れさせ、チャンネルを変えさせるには、「無用の用」ではまったく足りない。

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