Sunday, February 26, 2012

大学の時間、あるいは暗誦の効用



院生の頃からいくつかの詩を暗誦するようになった。これもお気に入りの一つである(ちなみに、彼の暗誦は若干正確さを欠くが、しかし実に素晴らしいものだ)。

最近、自分のゼミでも、学生たちに何かしら詩を暗誦してくるよう、求めることにした。素敵ですねと言ってくれる学生もいるので、うれしいかぎりである。

なるほど、詩を覚えることなど、社会に出てから何の役にも立たない。「御社」の情報を徹底的に調べ上げたほうが面接の受けもいいだろう。ゼミ中にSPI対策の試験勉強をするという先生方も現れてきているご時世である。

(ちなみに、「SPI」という語も知らないという人は、現在の大学が置かれている状況について語る資格はない。もちろん、それに盲従せよというのではない。敵を知らなければ有効に戦えないといいたいのである。)

だが、では、社会に出て数年も経てば時代遅れになる「すぐに役立つ」情報、「即戦力になる」=その時々の産業界のご都合主義的な要望に完全に従順になるための訓練こそが大学でやるべきことなのか?

現在、(一握りの有力大学を除く)大学はいよいよ就職活動用の専門学校と化しつつある。

だが、大学は就職活動のためにあるのではないし、あるべきでもない。そのことに社会全体が気付くべきであり、特に政府と産業界は、「大学の就活専門学校化」は、長期的に見れば、自分たち自身のためによくないと気付くべきだ。彼ら自身がきわめて近視眼的な、ショートリターンの論理に呪縛されていることに気付くべきだ。

東大の秋入学が話題になっているが、まずもって見直すべきは産業界における「新卒採用偏重」であり「学歴(大学名・偏差値)偏重」であることは疑いを容れない。前にも引用したが、

《一見すると公平そうで、水面下で学歴差別を行い、絶対にエントリーシートを読まない大学の学生にもムダな努力をさせている》企業、《楽しいパンフレット、説明会を作り上げ、どうせ採らないのに選考に学生を呼び、楽しいイメージを植えつけて人気企業ランキングに投票させている企業》のほうをこそ、政府および産業界は問題視すべきなのだ。なぜなら、若い学生たちがそれらの真にブラックな企業に対して投入した努力の総量こそ、途方もないエネルギーの無駄遣いであるからだ。

「エコ」を売りにしている政府および産業界は、若い人的エネルギーの天文学的な損失に敏感であるべきだ。就活を苦に自殺する学生が年々増えている現状をどうしたいのか。

大学は、就活用の、せいぜい数年先までの力を養成する場ではなく、就活で失敗しようがどうしようが、その先数十年を生き抜いていけるだけの力を涵養する場でなければならない。

大学で過ごす時間の中でしか培えないものがある――回り道の時間、散歩の時間、パサージュの時間、媒介の時間、遅れの時間(昨年、ベンヤミンの大学論を扱ったのはこのような意図の下でのことである)。そういったものを守り、将来に引き継いでいくのは、私たち大人の務めであり、国家や社会の務めである。

他人任せではなく、大学頼みでもなく、私たち一人一人が――大学教員だけでなく、市民一人一人が――、たとえささやかであれ、このような動きに身を投じなければならない。

私は私の持ち場で、教壇の上から、あるいはゼミ室の中で、「大学の時間」を固守しようとしている。なるほど、詩を暗誦させるなど、笑えるほどささやかな「抵抗」かもしれない。だが、それは確実に一つの抵抗であることを、私は信じて疑わない。

哲学のゼミでありながら、哲学者の名前やら著作名、年号やら概念やらではなく、「詩」を覚えさせるという点に、実はもう一段深い意図が隠されている。哲学内にも「就活用の専門学校化」の危険性が潜んではいないか。「哲学一直線」は決して精神の優れたバランス感覚を生み出すまい。

哲学そのものの中に回り道、散歩、パサージュ、媒介、遅れを許容するのでなければならない。なぜなら哲学とはつまるところ、回り道、散歩、パサージュ、媒介、遅れであるからだ。

詩にも、語学にも、また時事ニュースにも、学生の目を向けさせるゆえんである。

Enivrez-vous, de vin, de poésie ou de vertu, à votre guise !

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