Tuesday, February 28, 2012

絶体絶命?再試について

卒業の季節が近づいてきた。ということは、再試の時期でもある。

知らない方のために言っておけば、再試とは、卒業間近の学生が、本試験に落ち、どうしてもその単位がないと卒業できないため、特別に実施される再試験のことである。



大学で過ごす時間の中でしか培えないものがある――回り道の時間、散歩の時間、パサージュの時間、媒介の時間、遅れの時間。そういったものを守り、将来に引き継いでいくのは、私たち大人の務めであり、国家や社会の務めである。

哲学そのものの中に回り道、散歩、パサージュ、媒介、遅れを許容するのでなければならない。なぜなら哲学とはつまるところ、回り道、散歩、パサージュ、媒介、遅れであるからだ。


と前に書いた。だが、すべての「遅れ」「回り道」が等価であるわけではない。



「試験に落ちておいて、こんなことを言うのは何ですが、父は来年定年で――あるいは、父が病気で長期入院しており、あるいは母と弟と三人で生計を立てていかねばならず、などなど――、どうしても今年の春から働きたいのです。僕が留年すると、家計に大きな負担をかけることになってしまいます。内定も決まっており、どーしても卒業したいのです。よろしくお願いします!」

こんな文言を試験の最後に書き込む学生が後を絶たない。しかも、試験問題自体はほとんど空白のまま、である。ちなみに、私の再試はいずれも、本試験とまったく同一の試験である。

彼らの卒業、彼らが苦労して獲得した「内定」、大げさに言えば、彼らのその後の「人生」も、ひとえにこの追試にかかっている、それはよく分かっている。通してやればいいじゃないか、という「大人」の考えも分からないではない。

しかし、である。なぜ彼らは事がここに至るまで事態を放置したのか。必要とされる勉強をせずに、絶体絶命の状況になったから超法規的措置で助けてくれというのは、どう考えてもおかしい。


こじんまりした大学なので、顔見知りの学生であることも多い。「顔見知り」であることを利用し、「情状酌量」にしてもらおうというのであろう。しかし、顔見知りであるということは、こちらも彼らのこれまで四年間の行状を知っているということである。彼らが「日中は仕事に精を出し、夜は勉学に励んだ」というような親孝行な学生であったら、私の考えはまた違ってくるかもしれない。

だが、事実はそうではないのだ。一年生の頃から「最低限の勉強はしておけ」と口を酸っぱくして言い聞かせたにもかかわらず、四年間バイトと遊びに明け暮れておいて、いざ卒業が近づいてきたら、この有様である。

そんな彼らに以下のようなことを言いたいのだが、彼らは直接私の前に現れないので、言う機会がない。だから、ここに書きつけておく。

1)「試験に落ちた」ということは、「合格に必要とされる勉強を十分にしなかった」ということである。大学というところは、なるほど、勉強ばかりをするところではないかもしれないが、遊びとバイトばかりするための場所でもない。勉強しなかった→単位が取れなかった→卒業できない、は論理的必然であり、どこにも情状酌量の余地はない。

2)父が定年になることは(あるいは、家庭内のあれこれの問題は)、すでに試験前から分かっていたことである。そんなに家計が苦しいというなら、どうしてきちんと最低限の勉強をして――遊ぶなとは言わない。しかし後々自分が困らない程度には勉強しておく要領のよさは社会に出ても必要であろう――、単位に困らないように大学での「人生設計」をしておかないのか。どうして「この単位をとらなければ卒業できない」というぎりぎりのところまで追い詰められるようなことをするのか?

3)「内定が決まっているから、卒業させてください」という。では、「卒業が決まっているので、内定をください」という論理は、企業に通用するのだろうか?

大学と企業は異なる論理が支配する別の組織であり、大学を卒業するための努力と、企業に入るための努力は、別物である。

「内定が決まっているので、勉強はしませんでしたが、単位をください、卒業させてください」というのは、「もうすぐ飛行機が出発するので、パスポートは持ってきませんでしたが(必要とされる所定の手続きは踏んでいませんが)、出国させてください」というのと同じである。そんなことを認めていたら、大学は成り立たない。

学生は「内定」と言えば道理(大学の論理)が引っ込むと思っている。それは、彼らが、就職活動中に味をしめた「超法規的措置」のせいである。彼らは授業に出なくても、「就職活動をしていました」「説明会に行っていました」「内定をもらった企業の研修があるので」――四年生の10月や11月にまるまる一カ月研修で上京させる企業があるのだ!大学での勉学を何だと思っているのか――と言えば、出席と(ほぼ)同じ扱いにしてもらえる。

4)しかも、 彼らは「絶体絶命」であると言いながら、私に会いに来ない。直接会って、事情を話し、再試のために一生懸命頑張るので、あらかじめ試験問題を教えてくださ い、試験のポイントを解説してください、勉強の仕方をアドバイスしてください――そう頼みこむのが「絶体絶命」の時の振る舞いではないのか?

彼らの「絶体絶命」は本気度が足りないと思う。どこか甘い。何とかなるだろう、どうにかしてくれるだろう、そういう甘さは社会に出て通用しない。大学が大人になっていくパッサージュ・過程であるならば、彼らはここで痛みをもって学ぶべきだろう。


5)そして、何より言いたいのは、上記のような非合理的な論理を振りかざして、私に精神的負担をかけるようなことを彼らはすべきでない、ということである。どうして教師を苦しめるようなことを平気でするのか?再試をせねばならない教師の心理まで思いやる余裕がないのは分かるが、私たちがなぜこのようないわれなき苦しみを負わねばならないのか?

6)再試の失敗は人生の終わりではない。絶体絶命ではない。必要な勉強をしなかったから単位が取れず、大学を卒業できなかった。それで内定を取り消された。それを教員のせいにするべきではない。それは、これまでの自分の生き方がもたらした結果、その学生のそれまでの生き方の「総決算」だ。甘んじて受け入れるしかない。

ひとは時に失敗する。ひどく失敗する。何度公募に出しても落とされる。何度論文を出しても落とされる。何度科研を出しても落とされる。それも、よくわからない基準で落とされる。

落第する。それもまた人生だ。そこから予想もしなかったまったく別の道が開けるかもしれないではないか。

いや待て、考えてみると、学校の試験ほど、客観的な基準で自分を計ってもらえるのは、人生の中でむしろ稀なことではないか…。


というわけで、再試であろうがなかろうが、内定が決まっていようがいなかろうが、他の受験者と同じように、客観的に、中立的に採点するほか手はない。

うーむ、「嘘をつく権利」を斥けたカント恐るべし。

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