奥本大三郎『トマト大学』太平記(幻戯書房、2011年12月)には三つの良さがある。
1)大学教員の生態誌として。主人公を化石的な教員に設定することで、現実にあまりに追従的な現在の趨勢に対して、風刺的な距離感が保たれている。
2)フランス文学の教授法の実践例として。一見すると迂回的・余談的・雑談的・非効率的・非生産的にも見えるこの手法が、実は文学や哲学にとって、きわめて重要なのではないか。
3)日本のフランス文学研究の「洋食的」(和食でも純粋フレンチでもない)独創性に関する思考の萌芽として。これは示唆されているにすぎないが、発展させられるべきものではないか。
第一点については先に述べたので、ここでは第二点について、少し発展させてみたい。
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『ファーブル昆虫記』として日本で知られている書物の原題は、Souvenirs entomologiques、つまり『昆虫学的回想録』。「虫の話だけじゃなく、ファーブルの自伝風の文章が交えられているんだ。それを『昆虫記』と簡潔な題名に訳したのは大杉栄という人でね、無政府主義者の。まあ、そういう話はさておいて、と」(25頁)。
ドゥルーズもそうだが、アナーキストは時に実に簡潔な文を好む。しかし、ベルクソンも、ファーブルも、アナーキストではない。
ファーブルは、蝶がさまざまな植物の間をひらひらと実に悠長に舞っていくように、一見脱線にも見える記述を続けていく。
大学の時間は、遊歩の時間、散歩の時間、逸脱の時間、遅延の時間である。
奥本氏は、第1章「落日のフランス文学」において、「スープを飲む」がなぜmanger de la soupeとなるのかについて、まさに『ファーブル昆虫記』の一節を引き、逸脱に次ぐ逸脱とも見える雑談を重ねつつ、その実、まっしぐらに謎の核心へと迫っていく。その手さばきは、見かけの「胡乱さ」「茫洋さ」とは逆に、実に鮮やかである。
もう一例挙げよう。第5章「アメリカに落ちのびた王太子」では、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』のある挿話から始めて、アメリカとフランスとの因縁浅からぬ関係を論じるともなく論じている。
アメリカ大陸には昔モンシロチョウはいなかった、あれはフランス系の移民が持ってきたキャベツに卵か蛹がついていたんだ、日本のもそうかもしれない、日浦勇の『海をわたる蝶』を読めと、デリダのように「哲学の国籍(ナショナリティ)」ではなく、「哲学の植物相(flora)」を提唱したい私の関心を引く言葉をつぶやきつつ、英語では生きている家畜とその肉とで単語が違うのに――cow/beef, sheep/mutton, pig/pork――、フランス語は一つしかなく――boeuf, mouton, porc――、しかもそのどれもが、英語の肉のほうに近いことに注意を喚起しつつ、その理由を実に鮮やかに説明してくれる(わざと間のページを抜いています)。
文学や思想の授業において、見た目に手際の良すぎるのは考え物である。
落語とは無駄話の集積である。それを聴いたからといって、得になることは一つもない。にもかかわらず、落語家の芸には明らかに優劣がある。芸の良し悪しは必ずしも見た目の手際の良さとは比例しない。
蝶のように舞い、蜂のように刺す。逸脱にも優劣があり、脱線にも作法がある。
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