立川談志さん、余命宣告されていた 長男長女が緊急会見
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(写真:ORICON STYLE) |
落語家・立川談志さんの訃報を受け、談志さんの長男で所属事務所社長の松岡慎太郎氏(45)と長女の松岡弓子氏(48)が23日、都内ホテルで緊急会見
を開き、昨年11月に喉頭がんが再発した際に余命2、3ヶ月と宣告されていたことを明かした。慎太郎氏は「家族孝行の父でした。突然死なれるようなことは
しない死に様は見事で、すごい父親でした」と最後まで弱音を吐かずに闘病した父を称えた。
緊急会見を開いた長男・松岡慎太郎さん(45)と長女・松岡弓子さん(48)
今年3月に一門会での高座『蜘蛛駕籠(くもかご)』を最後に活動休止していた談志さんは、がんの進行によって呼吸困難症状に陥り、気管切開手術を実施。
術後、ほとんど声を発することができなくなったが、弓子氏は「『私の名前は、立川談志だ』と言ってました。口の動きでわかりました」と噺家としてのプライ
ドを最後まで捨てなかった父の勇姿を伝えた。
体調不良と体力低下で自宅療養と入院を繰り返し、筆談でやりとりをするようになった談志さんについて、慎太郎氏は「亡くなるギリギリまで、強い意欲を
持っていた。ベッドから起きられない現実にも、弟子の高座があると『行ってやる』と言ったりとか、強さと優しさがあった」と、常に一門を気にかけていた父
を紹介し、目を潤ませた。
10月27日に容態が急変し、心臓が停止したこともあったというが、その後3週間、意識が戻らない状態で生き抜いた。弓子氏は「本人はふとした病で死に
たいと言ってたけど、家族への思いがあったと思う」と涙ながらに語った。亡くなるまで家族以外に病状を口外せず「あのおしゃべりで毒舌な父が声を失うこと
が切なかった。しゃべれなくなった談志をさらしたくなかった」と悲痛な心情を漏らした。
葬儀・告別式は、談志さんが生前「人に知らせるな。骨は海に沈めろ」と語っていたことを守り、近親者により執り行われた。棺の中にはトレードマークだっ
たヘアバンドやかわいがっていたぬいぐるみが入れられ、紋付袴で手に扇子を持った姿で見送られたという。戒名は、生前自らつけていた「立川雲黒斎家元勝手
居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」。後日、お別れの会が開かれる予定。
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立川談志さんの死去について会見する息子で事務所社長の松岡慎太郎さん(左)と長女の弓子さん=片岡航希撮影 |
立川談志さんの長男、松岡慎太郎さんと、長女、松岡弓子さんは23日夜、東京都内のホテルで記者会見を開いた。
慎太郎さんはまず談志さんの病状と葬儀の経緯を説明したうえで、質疑応答に臨んだ。
慎太郎さん すでに報道でもありますように、21日、喉頭がんで死去しました。生前中は、ファンの皆様、マスコミの皆様など、お世話になりました。家族、事務所としてお礼を申し上げます。今回は密葬という形で、本日3時に葬儀は終えることができました。
3年前に喉頭がんになりました。その時は発見も早かったので、効果的な治療ができて治った。昨年11月に医師から家族に話がありますということで、喉頭がんの再発を言われた。
声帯をとってほしいと医師からは言われた。ただ、しゃべる仕事をしており、まして立川談志だったので、「分かった」はない、本人もプライドは許さないと、摘出手術は拒否した。表面のがんだけ取り除く形で、自分の声で話せるかぎり、今年3月まで高座にたちつづけた。
3月の終わりぐらいに気管切開。それからは、在宅治療と入院治療を続けていた。その間、危険な状態もあったが、きゃしゃに見えても強くて、今までの経験で乗り越えてきた。
先月27日に容体が急変し、心肺停止までいきました。心臓はすぐ動き始め、それからも3週間、医者もびっくりするくらい、強く、生きていた。
在宅治療中、本人も苦しかったと思う。飲めない、食べられない、しゃべれない。しゃべれないのが何より苦しいようだったが、一度も苦しいとは言わない。最後も家族が全員たちあって、穏やかに亡くなりました。
――3月に舞台出た時に、いつになく元気がなかった。限りある命をご存じかと思っていたが、お嬢さんは、どんな思いか。
弓子さん 3月の気管切開出術で声が出なくなって、それからは筆談。最後は筆談の方も読めなくなっていた。それでも8か月間、人生で最初で最後というく
らい、父とべったりできた。イメージと違った、こんなにジェントルマンだったんだ(と思った)。そういう時間をもてて良かった。
――最後の筆談の紙は。
弓子さん もともとおしゃべりだったので、すごい量。最後、何を書いていただろうね。遺言ではないが、葬儀をしないでくれ、骨は海にまいてくれ(ということだった)。戒名も自分でつけていた。
――つけた戒名は。
慎太郎さん 立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)。これが戒名です。
――余命はどれくらいと。
弓子さん 2、3か月くらいということだったんですが、丸5か月一緒に過ごしました。
――奥さんに頭上がらなかったと言うが。
弓子さん すごく母が頑張って、幸せな夫婦だったのでは。他人同士があれだけ思いやれるのかと思いました。
――落語家立川談志をどのようにみているか。
弓子さん 落語家としても最高に格好良かったんですが、本当に最高に優しいお父さんでした。(涙を流して声を詰まらせる)
――ひつぎの中にはどのようなものを入れたか。
慎太郎さん 花以外は、トレードマークのヘアバンドとか、ぬいぐるみとか。遺言や遺書はなかった。
――破天荒な天才ぶりで愛された師匠だが、家族にとってはどんな父親だったか。
慎太郎さん 皆さんがイメージされている立川談志とほぼ同じです。
――今年3月まで活動されていたが、療養中に高座にかける思いは。
慎太郎さん かなり亡くなるギリギリまで、強く意欲は持っていた。ベッドから起きあがれないような状態だったので、行けないという現実は分かっていた。
――人生で最初で最後と思うほどべったりしていたとおっしゃった。こんなにジェントルマンかと思ったというのは、弓子さんにとって、父親としての談志師匠は違ったイメージなのですか。
弓子さん おしゃべりで、毒舌の父が一言も口がきけなくなるということは、それはそれは切なく、いじらしく、声を失わなければ味わわなかった思いはもち
ろん、すごくたくさんあったと思う。それ以前の父は、破天荒で子供の頃から、テレビと家で言ってることは同じ。まったく外と家と変わらなかった。ただ声を
失い、自分のことができなくなって、要介護度5になって、なってみないと分からない思いは、双方にあったと思う。
――師匠自身が言葉にならないながらも変わったというのは、どういう時に感じたか。
弓子さん 勝手な人だったのが、我慢をせざるをえなくなる。吸引や、してもらわないといけないことがたくさん発生するわけですから。人にお願いすること
は、しゃべれてたらなかっただろうね。(病状が進んで)食べられなくなったが、食べたいというより、しゃべりたいという方が多かった。
――小さい頃からのお父さんと、亡くなる直前のお父さんと比べて変わったか。
慎太郎さん しゃべれなくなってから変わった。
弓子さん ある意味、なかなか死ななかった。
慎太郎さん 力強く生きていた。
弓子さん 強さも見せつけられたね。
――父親として、家族にとってはどんな存在だったのか。
慎太郎さん 今思うと、家族孝行の父だったと思う。意外かもしれないが、結果的にそうだった。医師から病状を知らされてから、気持ちの整理をする時間も
ありましたし、時間を十分与えてもらい、家族が苦しまないように、人生成り行きかもしれないが、悲しまないように。死に様が見事だったと思う。家族にとっ
ては、すごい父親だったと思う。
弓子さん 本人はふとした病で死にたいと言っていたので、あの頑張りは、私たちのためにしてくれたのだと思う。
弓子さん 病気になってから泣き言は言わなかった。
再発は分かっていたと思う。気道を確保する時、しゃべれなくなると主治医に言われていなかったので、驚いたようです。筆談の第一声が「しゃべれるようになるのか」だった。本当に答えられなかった、手術の直後は。
――答えられないことで状況を察したのか。
弓子さん そうだと思う。
――病状は周囲に話したのか。
慎太郎 家族にだけ。体力、気力も落ちていたので、色んな方に心配かけますし、本人にも穏やかな環境で過ごしてほしかったので、家族だけにしようと思った。悩んだが、一門の人間にも伝えなかった。
弓子さん しゃべれなくなった立川談志を、家族はさらしたくなかった。お弟子さんとは夏ぐらいに一席を設けて、会ってもらった。それがお弟子さんにあった最後になった。
――師匠の様子は。
慎太郎さん 弟子に会うので楽しみにしていた
弓子 体温が39度ぐらいあったのに、熱が下がる注射をしてもらい、担がれるようにして行った。お弟子さんの前には、びっくりするぐらいしっかりしていた。しゃべれませんでしたが。
――確認だが、家族としては、「余命2、3か月」と本人に言っていないが察知したかもしれない、と思うか。
慎太郎さん してないと思う。
――高座に向かう時の談志さんには、覚悟があった様子か。
慎太郎さん かなり強い意欲を持っていたと思う。声はかすれて。
弓子さん 出ない声で、あの「芝浜」なんかは……
――昨年暮れの読売ホールの?
弓子さん そうです。ふつうの人ではあり得ないと思う。声の出る限り、落語を愛していたんだと思う。
――それ以降は。
慎太郎さん 昨年12月の読売ホールがあって、3月までに3回くらいだと思う。
――談志さんが生前好きだった思い出の場所などは。
弓子さん 家で食べるのが好きな人でした。
慎太郎さん その時代で好きなものはかなり変わったが、だんだん言わなくなった。最初のうちはヨーグルトとバナナでこれは「チンパンジー食」だといったりして。
弓子さん 食欲がどんどん無くなってきた。気管切開をした後にステーキを焼いたら、俺も食べる、と言って。本当に小さく切って食べたら、それが気管に引っかかって、それで死にそうになったんです。外食は去年のクリスマスに洋食屋さんに行ったのが最後ですね。
――葬儀で流した曲は。
弓子さん 「ザッツ・ア・プレンティー」です。これで満足という意味です。(おわり)