m君(h大D)・sさん(研)・sさん(f大4年)・n君(商学部 4年)・y君(3年)・k君(3年)
・wさん(f大3年)・t君(2年)の8名の参加者、そして、hさん(1年)・a君(1年)・s君(1年)と3名の見学者を得て、とてもにぎやかにゼミを進めることができた。
私は制度の中に意図的に不純さを注入している。他大学から3人、他学部から1人、他学年から3人という多様性がとてもうれしい。クリーンなヨコ割り(学年ごとの担任ゼミ制度)が支配的になりつつある大学にあって、今、最も欠けているのは、この種の活気ある猥雑さではないか。
猥雑さは強靭なたくましさをもってはいるが――学生たちはこのような「混淆」からこそ、最も裨益を被る――、しかし制度的にはとても脆弱である。脆く、はかない。この猥雑さを学生たちとともに、意識ある同僚たちとともに、守っていかなければならない。
「理想の教室」は、無償では、無意識では、守ってはいけない。なぜなら大学の上層部(文科省や理事会)というものは往々にして、直接的・短絡的な意味での経済的「還元」の神話に、すなわち純粋さの神話に囚われてしまっているからだ。
後期の最初までは、ライプニッツ『モナドロジー』という古典中の古典、そしてその後は、ベルクソン『二源泉』、レヴィナス『存在の彼方』と来て、ドゥルーズ「管理社会論」、ベンヤミン「複製技術論」といった現代作品を読んでいく。
古典と新作、落語と同じように、じっくり作品を味わう、そして一緒に読んでいく、という「経験」の楽しさを知ってもらえれば何よりである。
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