密葬知らされず…志の輔「最後までダンディズム」
デイリースポーツ 11月24日(木)7時12分配信
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涙をこらえるかのように見上げ立川談志師匠の思い出を語る立川志の輔=東京・千代田区の内幸町ホール(撮影・吉澤敬太) |
こぼれ落ちそうになる涙を必死にこらえた。都内での高座を終えた志の輔は、厳しくも温かかった談志さんを思い浮かべながら、言葉を絞り出した。
「お疲れさまでした。最後の最後までかっこよかった。立川談志のダンディズムを、ほんの少しでも受け継がせていただければ」
弟子ですら聞かされていない“最期の別れ”だった。「密葬の形でだびに付されたことを先ほど知りました」と切り出した志の輔は「師匠らしいな。自分が良 しとしない姿は弟子どもに見せてなるものかっていう、最後までダンディズムだと思った。ご家族が遺言通りにされたんでしょう」とうなずいた。生前から通夜 や告別式を拒否する意思を示していたという。
最後に対面したのは8月で、筆談でやりとりした。「放送できないような面白いことを書いて『どうだ!』って顔をしながら笑わせてくれました」。志の輔は 遠くを見つめながら、「ここ2年くらいは、頭はクリアなのに、思い通りの声が出ないという状況だった。弟子として見てても辛かっただろうなと思います」と 苦悩を思いやった。
83年に談志さんのもとに入門。師匠の落語を目の当たりにし、「瞬時にマネてはいけないというぐらいショックを受けた」と回想した。国会議員になったり、自分の流派を立ち上げた“破天荒”だった師匠に対し「すべて自分の思い通りに人生をデッサンしていた」と感服した。
意外な一面もあったという。高座が終わった際、一番深く頭を下げていることや、車での移動時は運転手を気遣って眠ることなく、しゃべり続けていたことな どを明かした。「マスコミは『談志、客とケンカ』ばっかりじゃないですか。本当は誰よりも気を使い、お客さんに感謝してるんです」と語気を強めた。
厳しかった師匠から後を託された。「どんなに怒っても、最後には笑みを浮かべて『うまくやれ』って言ってくれた。これからも色んな面において『うまくや れ』って言われるような気がするので、うまくやるように頑張ります」。“家元”の血を引く志の輔が、立川流の看板を守っていく。
談志さん 生き様すべてが落語家
信念を曲げることなく突き進む。“破天荒”と呼ばれる性格は、国政においても発揮された。
71年に参院選で当選。75年には沖縄開発政務次官に就任するが、政務次官としての初仕事となった沖縄海洋博視察に二日酔いのまま登場。地元記者から「公 務と酒とどちらが大切なんだ」と詰問されると「酒に決まってんだろ!」と答え、大きな波紋を呼んだ。さらに、弁明を行うはずの参議院決算委員会を、寄席を 理由に欠席。「大衆との接点を持ち続けるのが信条」との言葉を残し、在任期間わずか36日で次官を辞任した。
また、92年には瀬戸内海の サメが人を襲った事件を受け「シャークハンター必殺隊」を結成した。メンバーは談志と、当時、明治大学替え玉受験疑惑で謹慎中だったなべおさみ(72) ら。サメ被害に苦しむ人を助けるというのが名分だったが、サメのぬいぐるみ付きの帽子姿で登場し、現地住民の感情を逆なでする結果となる。
98年12月には、長野・飯田市内で開いた独演会中に居眠りしていた男性会社役員を見つけ、「やってられない」と控室に戻り高座が中断。「金を払ったから いいだろう」とする男性を主催者側が退場させ、訴訟問題に発展する“事件”もあった。観客のマナーの悪さから中断するケースはほかにもあったという。それ でも、すべてを含めた談志さんに観客が魅了されたのは事実だ。
(2011年11月24日)
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