Saturday, May 09, 2009

ルターその2:ヘッセンのフィリップの重婚問題(約束、誓いの重要性)

ルターの結婚観を語る上で、「ヘッセンのフィリップの重婚問題」は一つの試金石となるだろう。例えば、カルヴァン派と思しき論者はこう言う(後に見るように、この本はいろいろ教えてくれるが、それはカルヴァンの結婚論についてではない)。

《結婚を否定する形式主義との戦いはなされたが、結婚そのものの意義がそれによって積極的に打ち立てられてきたわけではなかった。一つの例にルターの場合がある。ルターは一修道女と結婚し、平和で敬虔な家庭を作った。それはプロテスタントの家庭生活の模範といってもよい。だが、彼は結婚についての明確な理念や理想を持っているわけではなかった。彼の保護者であり、プロテスタント諸侯の旗頭であるヘッセンのフィリップが、妻をもう一人持とうとしたとき、ルターは反対ができなかったのである。それは、権力者に頭が上がらなかったからではない。ただ、積極的な結婚観がなかったため、誤った結婚観を是正できなかったのである》(渡辺信夫『センチュリーブックス(人と思想10) カルヴァン』、清水書院、1968年、78頁)

しかし、日本のルター派の本丸『ルターと宗教改革事典』(既出)はこの間の経緯をこう説明する。

《ルターは、結婚のサクラメント化や、独身が功績とされること、近親結婚の禁止に洗礼の名親まで含めるようなことには反対したが、その他の多くの点ではそれまでの戒めを踏襲した。当時ヘンリー8世の離婚および再婚の問題があり、それを理由にイングランド教会はローマ教会から独立(34年)したが、ルターはその離婚に反対した。彼は約束を重視して離婚を退け、問題のある場合に「離婚よりも重婚を選ぼうと思うほど」だと述べた(「教会のバビロン捕囚について」、同第3巻)。しかしヘッセンのフィリップの重婚問題(40年)では、ルターをはじめ改革の陣営の者たちが了解を与えたということが明らかになって、非難を受けた。ルターは懺悔を聴く牧師として、良心の悩みに対する秘密の勧告のつもりであったし、またフィリップについての充分な情報も持っていなかった。いずれにしても、ルターは公に重婚について反対の書を著し(42年)フィリップはそれによってシュマルカルデン同盟の指導的役割から脱落した》(112頁)。

だが、この弁護も少し苦しいだろう。私見では次のものが一番穏当だが、理解すべきはまさに「いろいろと考えた末」に「いいかげん」であった理由なのだ。

《ルターの晩年に、ヘッセンのフィリップに重婚問題が起こった。ヘッセンのフィリップは19歳のときゲオルク公の娘と結婚したが、その後も女性関係が乱れていた。しかし福音主義者になってからは、良心の呵責を感じて、聖餐に臨めないほどだった。当時フィリップは一人の女性に愛情を感じ、結婚することを望んだ。しかし彼には妻があった。それでフィリップはこの問題についてルターに相談した。

これに対してルターは、離婚は姦淫の理由以外には認められないと考えた。そしていろいろと考えた末、旧約聖書のダビデやソロモンの例に倣って、フィリップが第二夫人をもつことは良心に恥じることではないと忠告した。

だが、当時の国法は、第二夫人を禁止していた。それゆえ第二夫人との結婚は秘密にされなければならなかった。ところが新しい花嫁の母が秘密にすることを拒んだので、事件が世間に知れ渡ってしまった。それでルターは、フィリップの相談を受けたのは懺悔室の中だったと嘘をついた。その嘘もばれて、ルターの評判は著しく悪くなった。この重婚問題に対するルターの態度はたしかにいいかげんであった。この点でルターの態度が人々の非難を浴びたことは当然のことと思われる。

また、この事件は、ルターの評判を落としただけでなく、福音主義の運動にも悪い影響を与えた。というのは、フィリップは、そのあとで、皇帝から許してもらう条件として、シュマルカルデン同盟に新しい諸侯を加入させないと約束したからである。フィリップはこの同盟の中心人物であっただけに、この約束は不幸な政治的影響をもたらした。》(小牧治・泉谷周三郎『センチュリーブックス(人と思想9) ルター』、清水書院、1970年、110-111頁)。

ルターの結婚論の中に混乱したものがあったのか、ad hominemに語っていたということなのか。ルター自身をもっと読まないと分からないが、時間がとにかく足りない。 いずれにしても、約束、誓いの問題が結婚論の一つの核心であることだけはたしかである。

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