6)発表の第一部の総題が「場所の記憶」と題されているのは何故か?
知覚とは知覚の場所であるということがベルクソンの純粋知覚論において決定的に重要である。しかし、純粋知覚論が記憶理論による補完を要請するものである以上、実際には、つまり『物質と記憶』全体の理論的な布置としては、最初から記憶の問題系のほうへ方向づけられている。したがって厳密には、知覚とは知覚の場所の記憶である。「幻影肢」の例が重要であるとともに、おそらくはベルクソン哲学の枠内では扱いえない理由がここにある。これについては拙論(「現象と幻想――ベルクソンのデジャヴとメルロ=ポンティの幻影肢」)を参照されたい。
7)第二部の総題で言われている「記憶の場所」とは、引用10で記憶に対して「日付」と共に与えられている「場所」と同じものと考えてよいのか?
まず引用文を再現しておこう。
「意識と同じ広がりを持つこの真の記憶は、我々の諸状態が生じるにつれて、そのすべてを留めおき、それぞれを次々に並置するのだが、その際この記憶は、各々の事実に場所(place)を与え、それによって日付(date)を刻む。[運動的・習慣的]記憶のように不断に再開される現在の中でではなく、決定的な過去の中でまさに現実に活動している(se mouvant bien réellement)」(MM, III, 168)。
「真の記憶」は、「各々の事実に場所を与え、それによって日付を刻む(laissant à chaque fait sa place et par conséquent lui marquant sa date)」と言われている。ここで記憶は、事実に場所を与えるものとされている。この議論を「言い方」「比喩」にすぎないと考えるなら、私の発表は単なるソフィスムである。
記憶が日付をもった取り替えのきかない記憶に場所を与え、空間を下から支える(sous-tendre)のでなければ、我々が現実の知覚世界と捉えているものの大半は成立しない。記憶は事実に場所を与えることで、自ら場所をもつ=生起する(avoir lieu)。二つの「記憶の場所」は密接に関係しているが、厳密に同一のものではない。知覚論がextension概念に、記憶の議論がtension概念に収束し、そのキアスムのうちにベルクソン的場所論――私が「内在的論理学」と呼び、「超図式論」と呼ぶもの――が描き出されている。
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