樋口和彦『聖なる愚者』(創元社、2002年)を読んだ。著者はユング派のプロテスタント。どこかで聞き覚えのある名前だと思っていたら、同志社大学神学部で36年間教えていたそう。もしかすると講演会とか聞いたことがあるのかもしれない。京都にいた学部生の頃は、実にいろんな分野の実にいろんな人の講演を聴きに行った。
《私は説教と講演とはまったく違うものだと思っている。しかし、一致しているところも多くある。どちらも話す人は一人で、聴衆はいつも黙って聞いている。それでいて、両方ともつねに双方コミュニケーションである。実際、話すこちらが下手でも、受け取る人々が温かく聞いてくれると、こちらもつい嬉しくなって、結果としては思ったよりよい話ができるようである。しかし、どうしてもあちら様がおよびでないときには、さっさと諦めて早々に切り上げるに越したことはない。
そうは思っても、準備をしていないときほど、もう一度聴衆を感激させたいと、下手な新米の飛行機の操縦士のように何度も何度も着陸を繰り返し、やがてだんだんと話がくどくなって、ついに終えられなくなり自滅することもある。これは、なんといっても悲惨である。
ただ、私の経験から言うと、講演では自分が「今日はうまくできた」と思ったときは、だいたい聴き手も喜んでくれているようであるが、説教はその反対で、自分が「うまくできた」と思ったときは、実は駄目なときである。むしろ「うまく言えなかった」とさんざんな思いで講壇を降りたときのほうが、あとから「よかった」と感じてもらえることが多いようで、これはまことに不思議なものである。その差はどこにあるのだろうか。
講演の目的は、自分の考えを人に上手に話すことであって、あくまでも自分が中心である。聞いている人も、その話を聞いて自分に何かが付け加わるから、得をしたようで嬉しいのである。しかし、どうも説教はそうではないようだ。
私は、説教は聴いている人の持っている何かを、つまりその人の拠って立つ自信のようなものを、ひとつひとつ取りはずしていくような作業だと思っている。その人のそれまでの人生で最も大切にしてきたものを、はずしていくのである。人が悪いと言えば、そうとも言える作業である。なにしろ説教は、自分が語るのではなく、「神が語る」のであり、神の声が人間の言葉の中から聴き取れなくてはならないからである。》(2‐4頁)
大学の「講義」は、いやより正確には、私の大学の「講義」は、説教なのだろうか、講演なのだろうか。少し考えてしまう今日この頃である。
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