あまりに基本的なことではあるが、繰り返し言っておかねばならないのは、《実際に結婚しているかどうか》、《結婚経験があるかないか》はひとまずどうでもいい、ということである。
同じことを裏から言えば、《自分は結婚するつもりがないから関係ない》、あるいは《「婚活」がうまくいって「(すごろくの)上がり」だか ら、もう解決済みの問題だ》とは言えないということである。《不倫や離婚を何度も経験しているから、「逃走=闘争」できている》とも言えない。私が「結婚の脱構築」と呼んでいるのはそういうもののことではない。人生も哲学もそんなに単純ではないのだ。
と同時に、人生も哲学ももっと単純なものだ。私が言いたいのは、結婚という愛・性・家族を「制度づけるもの」が問題として人生の前に横たわっているという単純な事実に驚かないのか、ということである。
《結婚したまえ、君は後悔するだろう。結婚しないでいたまえ、君は後悔するだろう。》(キェルケゴール)
《結婚は鳥カゴのようなものだ。カゴの外の鳥は餌箱をついばみたくて中へ入りたがり、カゴの中の鳥は空を飛びたくて外へ出たがる。》(モンテーニュ)
これらを単純な人生訓と思うなかれ。これらの格言は結婚という「制度づけるもの」の両義性を語っているのだ。
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