Monday, May 18, 2009

お答え1(純粋記憶の無為)

昨日の発表後に、あるいは私的に出た質問に答えておこう。

1)ベルクソンは記憶は消滅しないと言っているようだが、世話をしてくれる子供も忘れている痴呆症の老人に若年期の記憶ばかりが鮮明に蘇ってくるのは、ベルクソンによれば、なぜか。

知覚と記憶の関係:我々は、火急の必要とは無縁の純粋記憶に対しては目隠し(遮眼革)を付され、直接行動に役立つ現在の知覚のほうに目を向けさせられ、競走馬のように生きている。夢想や夢、精神的な病気は、この目隠しが緩んだ状態で生じる。ここまではどの研究者も一致している。

私が今回の発表で強調した点の一つは、《純粋記憶が身体に対して完全に無力だとする説(知覚が能動性のすべてを握っているとする説)では、「内在的感性論」の後を受けているはずの「内在的論理学」の企図は十分に説明できない。純粋記憶は身体に対して完全に「無力impuissant」なのではなく、現在の直近の関心から絶えず逸れうる「無為désoeuvré」なのだ》ということである。

上の質問は私の意図に完全に合致する。知覚システム(脳・身体)自体が生から遠ざかろうとしている(痴呆)ときに、知覚が力を振り絞ってもう一度生に復帰しようとした時、「知覚の論理」からすれば、手近の最も火急の現在に必要な記憶(近親者の再認)であるはずではないか。なのに、そこにではなく、現在とは何の関係もない遠い過去(青春の日々)に戻ってしまうという事態を、「純粋記憶無力説」は説明できない。

私は純粋記憶は無力なのではなく、無為と解釈すべきだと考える(そのテクスト根拠は発表で提示した)。つまり火急の関心と結びつくわけではないが、かといって生とまったく無関係でもなく、潜在状態で滞留している純粋記憶にはやはり生気が宿っており、別の視点から生物に新たな生の一面を見させることに資するものだと考える。

先のケースに関する私の解釈はこうだ。知覚が純粋記憶を探そうとするのはいいだろう(純粋記憶は決して自分を「売り込み」はしない)。だが、どの純粋記憶がその呼びかけに応じるのか――「イマージュ想起」の可能性の条件――という部分で、火急の利害とは一見無縁の、しかし当の生命体にヴァイタリティを再付与し、生きる喜びを再び持たせようとする記憶が選ばれるには、「知覚の論理」から逃れた何かが必要である。つまり純粋記憶の無為が。青春の日々を思い起こすことは、現在の火急の必要にとっては迂遠で、無意味とも思われよう――大学における哲学教育、人文学教育、教養教育がそう見えるであろうように。

無為(désoeuvre)は決して無力(impuissance)ではない。ただ、火急の必要から逃れてぶらぶらしているのである。それは決して無意味ではない。ここに私はベルクソン哲学の重要な対立項として私がこれまでの論文で何度も強調してきたもの、すなわち「功利性utilité」と対立し、それを絶えず鋳直す「効力efficacité」があると見る――私が発表の最後に触れた時事問題は、もちろん私の私的な感想を超えて、ベルクソン哲学そのものと結びついているがゆえに言及したわけだ。

純粋記憶もまた、生命力の一部なのである限り、私がsur-vieと呼ぶものにほかならない。生命は種の保存に関わるだけではない。明らかに種を乗り越えて進もうとする過剰で、過激な側面を持っている。従って生命とはsurvie(生き残りを賭けた戦い、サバイバル)であるだけでなく、常にすでに既成のvie自体を乗り越えて(surréalismeのようなsur)進もうとする超‐生sur-vieなのである。

sur-vieはsurvieから見れば明らかに遠回りをしたり、無駄と思われることもする。実際、失敗も後退もするだろう。だが、それは決して「無意味」ではない。「無力」とも違う。

純粋記憶を身体に対して完全に無力と考えると様々な困難が生じる。特に、明らかに精神的な要素を色濃く持つ(「超意識」とも呼ばれる)エラン・ヴィタルとの関係はどう考えるのか。異なる理由からではあるが「純粋記憶無力説」に立つドゥルーズも、故・石井敏夫先生も、この点を説明できないように思われる。

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