Friday, May 01, 2009

ベネディクト16世「コンドーム発言」の神学的根拠(ストア派的起源?)

元イエズス会士の友人が、「コンドーム」についての教会の「失言」をめぐる哲学雑誌(Philosophie Magazine)への寄稿を送ってくれました。私自身の意見はともかく大筋はこんな感じ。



聖書に曰く"Qui retient ses lèvres est avisé." (Prov. 10:19)、しかしまた、聖書に曰く"Celui qui ménage sa verge hait son fils." (Prov. 13:24)、ベネディクト16世は、コンドーム問題については後者を選んだようだ。さる3月18日、ローマからカメルーンに向かう機中で「コンドームを配ることではエイズ問題は克服できない」と語った。コンドームが不特定多数との性交渉を助長するとの理由などから使用に反対した発言だったが、世界保健機関(WHO)や各国政府、一部カトリック教会からも「非科学的」「人命軽視」との批判が相次いだ。

メディアを駆使した大規模ミサで庶民的な人気を博したカリスマ的な指導者ヨハネ=パウロ2世に対して、知的営為によって深刻な問題を解決しようとする学者肌の現教皇。前任者もたしかにコンドーム反対の立場だったが、彼は少なくともコンドームが「問題を深刻化した」とは言わなかった。理性と信仰の新たな結びつきを謳って出発した新教皇の口からこのような発言が漏れようとは。しかし、少なくともこの件に限って言えば、彼の「失言」は、哲学の欠如からではなく、哲学の過剰から来たものだ。

この半世紀来、教会は「自然法」概念の復権に力を貸し与えてきた。理性は生まれながらに普遍的な道徳原則を見出しうるものであり、このような法則は人類に共通の財産、信者と非信者の議論と相互理解のための場というわけである。生命科学の発展に沿う形で、ヴァチカンはますますこの自然主義的な方向性を強めてきた。女性の出産サイクルなど――最近は「婚活」から「産活」に話題が移ろうとしている!――生物学的プロセスはすべからく、尊重すべきある「目的」によって規定されていることを理性は認めねばならない、ゆえにセクシュアリティと再生産を人為的・意図的に分離するあらゆる試み(避妊・中絶)は非難されるべきだ、と。ここまでは新教皇も同じである。

パウロ6世およびヨハネ=パウロ2世が自然法に依拠したのは、彼らの神学的な参照先がトマス・アクィナスの『神学大全』だったからである。「差異の合理的思想家」トマス・アクィナスにとって、人間理性は神的本質についていかなる直観も持ち得ない。天と地の区別は絶対であり、自然法は永遠の法ではない。

これに対し、ベネディクト16世が依拠する「全体性の神秘的思想家」アウグスティヌスをはじめとする教父たちは、明確な区別をやんわりと拒む。人間理性はすでに神的な光に浸っており、理性の発見する諸原理はすでに神的である。

人間精神を神的ロゴスにまで高めつつ、このロゴスを恒常的に宇宙を定める力にするという教父たちの身振りは、実は純粋にキリスト教的なものではない。人間とは隈なく神的かつ合理的な宇宙の中の小宇宙だとするストア派的である。そしてここに問題の鍵がある。自然のまったき合理性の名のもとに性的活動を再生産(生殖)に限定するという身振りは、ストア派の厳格な一夫一婦婚道徳に由来する。ストア派的な神的=人的ロゴスがありとしあらゆるものの原因であり規範である以上、賢者はそこに記された法を読み取り、ただ「自然に従う」だけでよい。

だが、中世に始まる西洋近代の合理性は、理性が己の自律と同時に己の限界を見てとったときに生まれたはずのものである。その自律と限界を超えてなされる発言は妥当性を欠くという自戒、これこそ、ハーバマスとの対談も含めて、一連の発言において新教皇が認めないものなのである。科学技術の発展において勝利すると同時に、形而上学的な越権行為においては厳しく制限された近代的理性に対抗して、ベネディクト16世は、自然とその創造者、人間理性と神的ロゴスを同一の運動に含みこむストア派的な全体的理性に回帰しようとする。神的なロゴスに連なり、全体を直観する人間理性からすれば、存在の位階秩序を乱す技術的理性は部分的で偏ったものであり、コンドームは「問題を深刻化する」ものでしかない。

たしかに、トマス・アクィナスも「反自然的」な振る舞いについて語っているが、彼は天と地、永遠の法と自然法の間に不可逆的な亀裂が生じ始めた地平においてそうしていたのであり、この亀裂を埋めうるのはただ、神の恩寵だけだ、としていたのである。ヨハネ=パウロ2世はこの伝統を継いで、個人的なキリスト信仰に根ざしたスピリチュアリスト的な態度を堅持した。

これに対し、ベネディクト16世は、キリストへの信仰ではなく、人間理性と宗教を同時に含みこみ規定する偉大な永遠のロゴスによって道徳を基礎づけようとする。「あたかも神が存在しないかのように」、全体的な自然の秩序へと回帰することで、信仰から独立した道徳を打ち立てようとしているかのようだ。

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