Sunday, May 03, 2009

結婚の脱構築?

《君がよい妻を持てば幸福になるだろうし、悪い妻を持てば哲学者になれる。》ソクラテス

ソクラテスの妻クサンチッペの「悪妻伝説」は、今では「後世の作り話がほとんど」というのが定説のようである。それでも、結婚と哲学は長らくほとんど「二律背反的」な関係にあったといっていいだろう。それはおそらく、プラトンが「哲学」および「哲学者の生き方」を作り上げたということと決して無関係ではあるまい。

…というような具合に、私の「結婚の形而上学とその脱構築」は始まるのだが、しかし、我々はまだこんな風に真剣に話を提示する段階には至っていない。その前に解いておくべき誤解が山のようにあるからである。



「結婚の哲学をやろうと思っています」と言うと、たいてい茶化したような、冷やかな反応が返ってくる。大学論以上に、である。思想家も理論家もまだまともに手をつけていない、にもかかわらず人間の生の中心にかかわる問いだからこそやる価値があるはずではないか。「知的冒険」などと称しても、所詮はすでに価値を認められたものにしか手をつけない哲学研究者が実に多い。

「結婚の脱構築」なのだというと、「フリーセックス」ですか、「不倫」ですか、とくる。前世紀初頭に無理解と戦いつつ理論的地位を 固めた「精神分析」に興味をもつと称する現代思想系の人々までもがそうなのだから呆れてしまう。彼らはフロイトやラカンから一体何を学んだのか。

あるいは、もう少しましな人々はこういう。「結婚なんてもう終わってる制度でしょう」。数年前まで「国家」についてよく聞いたセリフだ。ついこの間も「大学」について聞いた。「大学なんていずれなくなるでしょう。」人は間違えることがある。それはいい。でも何度も同じ間違いを繰り返してはダメだ。この「終わらなさ」、これらの制度のしぶとさ、執拗さをこそ分析しなくてどうする。

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