Wednesday, May 20, 2009

お答え2(経験の転回点)

2)レジュメの中に「経験の自己転回(経験一般から人間的経験へ)」とあるが、これは有名な「経験の曲がり角」の一節を指しているのか。

そのとおりです。

「しかしまだひとつ最後の企てを試みねばなるまい。それは、経験をその源泉にまで求めに行くこと、といううよりはむしろ、経験が私たちの実利のほうに屈折して固有な意味の人間的経験になるその決定的な曲がり角を超えたところまで、それを求めに行くことであろう。カントが証明したような思弁的理性の無力は、根本的にはおそらく、身体的生活の必要に隷属した知性の無力に他なるまい」(強調ベルクソン)。


3)ちなみに、関連していると思うのでmurakamiさんの疑問にもここでお答えしておきます。「
hfさんがイマージュの自己生成の局在化時に出現するのが(カント・フッサール的)超越論的な主観性だというのに対し、戸島先生は、現にできあがった世界(という仮象)の手前で、それを生み出す「生成する実在」に視点をとるという話し(という風にぼくはお二人を理解した)。ドゥルーズの名前が出てこなかったがやはりドゥルーズなのだろうか。

経験の折りたたみから人間的経験、したがっていわゆる「感性のアプリオリな形式」も含め、あらゆる「理念的なものの発生」の可能性が開けてくる、というとたしかにドゥルーズもそのラインである(というか、ドゥルーズがベルクソンから影響を受けているというだけの話だが)。しかし、違いも間違いなくある。この違いが私の昨年のベルクソン国際シンポでの発表の主題(「ドゥルーズかベルクソンか。何を生気論と認めるか」)であった。そのときの論文も含め、いずれ公刊されるので、ここではごく大雑把に言えば、ドゥルーズはサルトルの「非人称的な超越論的領野」のほうに近く、『物質と記憶』を読む時もそのラインで読んでいる。そしてまさにここに違いが生じるわけです。


4)「一気にd'emblée」という言葉が「持続の相の下に」という意味になるのはなぜか


「知覚や記憶の中に一気に身を置く」という繰り返される表現の中の「一気に」という語は、瞬間的な時間の短さを示しているのではなく、むしろ位相の断絶を強調しており、その語源的な意味「in volareその中を飛ぶ」ととったほうがよい。哲学的直観の中で捉える、したがって「持続の相の下に」いる。


5)レジュメには「『物質と記憶』第1章の純粋知覚論における身体図式、潜在的行動としての知覚、そして第4章のextension概念を通じて、カント的空間とは異なる「知覚の場所」が描き出される」とあるが、「知覚の場所」という必要があるのか。単に「知覚」ではダメなのか?

本発表の強調点は、「純粋知覚」とは「知覚が置かれること」であり、「純粋記憶」とは「記憶が置かれること」であり、「イマージュ」とは「措定そのもの」であるという点にある。引用した一文、

「身体が宇宙の中で絶えず占めている場所(place)によって、我々の身体は、我々がそれに対して働きかけうる物質の諸部分と諸様相を表示する。」

はこのことをよく示している。「知覚」とは「知覚の場所」のことなのである。

No comments: