ひとくちに「宗教改革の結婚論」と言ってもさまざまである。周知のように、ルターが「95カ条の提題」を「城門に打ち付けた」(かどうかも議論の的なのだが)のは、当時城門が大学の掲示板代わりに用いられていたからであり、彼としては学術的な討論を呼びかけただけであった。
したがって、一般の人々の生活に直接的な影響を与えたという意味での「宗教改革」は、むしろカールシュタットやメランヒトン、アウグスティヌス隠修士会のガブリエル=ツヴィリンクといったヴィッテンベルクでのルターの同調者たちが、彼らなりの福音主義に基づいて具体的な改革運動を始めたことに端を発するのである。
結婚についても同じことで、たしかにルターはすでに「バビロンの幽囚」や「ドイツのキリスト者貴族に与える書」のなかで《結婚は神が制定したものであり、司祭が結婚することは神の意にかなうことだ》と主張してはいたが、司祭や修道士たちの結婚を実際に認め、奨励し、自ら実践し始めたのは、前述の急進的改革者たちだったのである。
司祭兼修道士であったカールシュタット自身が結婚したとの通知にルターは驚いた。《理論から過激で理論的には稚拙なものが生まれ、それが理論を追い越し、理論をあるいは後押しし、あるいはより精緻な方向へ、あるいは別の方向へ修正させる》という現象の一例であろう。
小牧治・泉谷周三郎『センチュリーブックス(人と思想9) ルター』(既出)にこうある。
《ルターにとって、敵は、教皇側の勢力だけではなかった。ルターに同調した人々のなかからは、まだ急進主義的傾向は消えていなかった。いやむしろ強まっていた。カールシュタットは、ヴィッテンベルクを追われて、オルラミュンデの教会に移ってから、ますます急進的になっていった。彼は幼児洗礼をやめ、聖徒の画像と教会音楽を非難し、ミサにおけるキリストの現在を否定し、牧師に結婚を義務づけるにいたった。こうしたカールシュタットの急進主義は、ルターには、人間の内面を軽視し、外面的なものを過度に重要視する新しい律法主義のように思われた》(93頁)。
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