Thursday, May 28, 2009

たかが入門書、されど入門書

「映画俳優」でなく「テレビ俳優」を志すとしても(前日のポスト参照)、入門書を馬鹿にするなかれ。細かい書き方が気になる。アリストテレスはプラトンの敵、それはそのとおりなのだが、もうちょっとニュアンスがほしい。例えばこういう入門書は感心できない。

《アリストテレスは、プラトンの弟子、アレクサンドロス大王の家庭教師として知られる。ギリシアのポリスが限界を迎えた時代を生きたアリストテレスの考えは、師プラトンとは鋭く対立するものだった。》(貫成人(ぬき・しげと 1956-)『図説・標準 哲学史』、新書館、2008年、24頁)

この後、貫氏はすぐさま、アリストテレスの中心的な学説「1.四原因説」「2.実体」「3.実践三段論法」「4.『詩学』」「5.形而上学」を解説していくが、そこでは先の伝記的記述は何の意味も持たない。すると、先の数行は、たとえ著者の意図がそうでないとしても、「私は意味ないと思うけど、出版社の意向なので、一応哲学者の生涯など事実関係にも最低限言及しておきます」という姿勢に見えてしまう。

私は哲学史の授業である哲学者を取り上げるときは、必ずまずその哲学者を一つのイメージで捉えられるように配慮する。味気ない伝記的事実を淡々と最初に与えたところで、学生たちが興味を持つはずもない。まずその哲学者についての一つの中心的なイメージを与え、多少なりとも興味を持たせた後で、重要な伝記的事実を彼の哲学と密接に結び付く形で与えるからこそ、学生は興味を持ちうるのである。

(だからこそ、私は熊野純彦氏の『西洋哲学史』(岩波新書、2006年)全二巻を断然支持する。内容は平均的な学生たちには少し難しすぎるだろうけれども、彼がやろうとしていること――一つのイメージを与えることから始める――は正しい。)

そして「対位法」ということを重視する。例えば、初期ギリシア哲学に関する授業では、真っ青なエーゲ海の写真を見せて、自然哲学者たちの自然や宇宙への関心をイメージづけ、その次の授業では、カプリ島「青の洞窟」の神秘的な濃い青の写真を見せて、南イタリアのピュタゴラスやヘラクレイトスを解説する、といった風に。

あるいは、ソクラテスの生きたアテナイとプラトンの生きたアテナイの大きなずれから、二人の哲学の違いを説き起こしてみたり、師への思いからエクリチュールとの関係に悩む人プラトンと書きまくる「教授」アリストテレスを対比的に見ることから始めたり。

哲学とは学説の歴史、概念の歴史、たしかにそのとおりなのだが、それを語るのは人であり、それを聴くのも人である。池田晶子のように大向こうに媚びる自称「哲学書」も嫌だが、誰に向かって話しかけているのか分からない、物知りだが味気ない「標準」哲学概説書にも――特に貫氏ほどの人であればこそ――がっかりさせられる。

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