Saturday, May 23, 2009

ソフィストの時代――哲学教師と哲学者の狭間

日本有数のフェティシズムの専門家が偶然、私がずいぶん前――八年前!――に書いたポストを読んでくださる。ありがたいことですが、ブログなんて信じてはいけません(笑)。

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ここしばらく西洋哲学史の授業準備のために、ほとんど新書ばかりだが、古代哲学関係を読み漁っている。

斎藤忍随(にんずい 1917-1986)『知者たちの言葉――ソクラテス以前』、岩波新書、1976年。

ヘラクレイトスとエンペドクレス、デモクリトスを集中的に扱った好著。各セクションの冒頭に哲学者たちの言葉を引いておき、その注釈(多く非ハイデガー的な)という形をとっているのも好感が持てる。

ソフィスト関係
・田中美知太郎(1902-1985)『ソフィスト』(初版1941年)、講談社学術文庫、1976年。
・廣川洋一(1936‐)『イソクラテスの修辞学校――西欧的教養の源泉』(初版1984年)、講談社学術文庫、2005年。
・廣川洋一(1936‐)『ギリシア人の教育――教養とはなにか』、岩波新書、1990年。
・ジルベール・ロメイエ=デルベ『ソフィスト列伝』、文庫クセジュ、2003年。
・納富信留『ソフィストとは誰か』、人文書院、2006年。
・納富信留「ソフィスト思潮」、『哲学の歴史』第1巻所収、中央公論新社、2008年。

納富先生のは、パースペクティヴの取り方が実に素晴らしい快著である。何が素晴らしいと言って、「ソフィスト」をヘーゲルのように「真の哲学誕生に至る重要な一契機(前段階)」としてでも、ニーチェのように「反哲学」の英雄として取り上げるのでもなく、「著名な哲学者の生涯や思索を取り扱う場合とは大きく異なる意義をもち、異なる接近を必要とする」ものとして描き出すというパースペクティヴが素晴らしい。私たちが「大学の哲学関連の教師」ないしは「哲学研究者」と「哲学者」の狭間にいるという現実から往々にして目を背けながら、他方で、グローバリゼーションや資本主義やその他諸々の「ソフィスト」的現実を容易に批判する傾向があるだけに、このパースペクティヴはいっそう際立つ。

《私たちも、自身がソフィストである可能性に直面しながら、それを批判し自らが哲学者となることによってしか両者の対は明らかとならない。ソフィストとの対決は、哲学の成立をかけた争いなのであり、その主役は、あなた、そして、私自身なのである。ソフィストとは誰か、それは、私たち自身の生の選択において哲学問題となる。》

田中美知太郎のは、納富先生の本から教わったのであるが、初版が戦前=1941年のものであることに注目されたい。これも実に良書でした。

《さきにソピステースの徳育や弁論術が、別に我々から軽蔑されたり、嘲笑されたりするようなものではないことを述べた。無知は彼らだけのことではなく、むしろ我々においていっそう暗黒だからである。誇張された言葉で正邪善悪を云々する声は天下に満ち満ちているけれども、我々はそれが何であるかを深く考えたことはないのである。》

廣川氏のは、狭義の「ソフィスト」というより、イソクラテスを代表とする「古代の修辞家」を通して「教養」とは何かを考えるというもので、これはこれで重要な問題である。

《ギリシャ的教養における二つの理念は、哲学思想の領域では、道徳的・実践的な価値が学問・知識の対象とならないことを主張し、人間の行為や生き方に関わる問題を厳密な学知――数学・幾何学などに代表される――と同列に考えることを否定する立場(イソクラテス)と、実際生活における言論と行為の指針となるべき価値の規範もまた、あるいはむしろこれこそ最もよく厳密な学知として把握されるべきものとする立場(プラトン)として理解することができるだろう。》

氏が新書の序文でアラン・ブル-ムを引いていることからも端的に窺えるが、「ソフィスト」にせよ、「修辞家」にせよ、《哲学と大学》を考えるうえで大変興味深い。

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