日哲発表後の共同討議でのコメントも採録しておく。ちなみに、これは私が博論のある註で記した内容を簡略化したもの。これを別様に展開したエッセイとして次のものも参照されたい。
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「哲学史を読み直す」という主題でさまざまな興味深い論点が提出された今日の共同討議では、たびたびベルクソンとハイデガーの名が挙がりました。二人はかなり異なる形で哲学の歴史と向き合い、ひいては「ことば」そのものとかなり異なる姿勢で接してきたわけですが――「哲学史を読み直す」という営為は、「言語」の問題と格闘するという営為と切り離せません――、考えてみれば、そもそも二人の哲学する根本気分(Grundstimmung)そのものが違うのではないかと思います。
ハイデガーは有名な『形而上学の根本諸概念――世界・有限性・孤独』(フライブルク大学における1929-1930年冬学期講義)において、ノヴァーリスによる哲学の定義――「哲学とは本来郷愁(Heimweh)であり、随所に、家に居るように居たいと欲する衝動である」――を引きつつ、こう語っています。
《哲学はある根本気分において生起する。哲学的概念把握はある感動に根ざしており、この感動はある根本気分に根ざしている。》
続きは各人で読んでいただくことにして、ハイデガーにおける哲学することの根本気分が「郷愁」であることは、彼の哲学史の読み直しの作業――かつてVorsokratikerと呼ばれ、現在では「初期ギリシア哲学者」と呼ばれる者たちへの執拗な回帰――、そして彼の言語観――言語は存在の家である――と直接的に結びついています。
では、他方で、ベルクソンにおける哲学することの根本情動は何でしょうか。繰り返し語られるそれは、快楽(plaisir)とは区別された歓喜(joie)です。例えば、「哲学的直観」という論文末尾の有名な一節にはこうあります。
《生活の利便にのみ向けられた応用によって、科学は私たちに快適を、せいぜい快楽を約束してくれます。しかし、哲学は、すでに歓喜を私たちに与えてくれます。》
他にも幾らでも例を挙げることができることは、ベルクソン研究者なら周知のことですし、この「歓喜」が時として――とりわけ「神秘的直観」と結びつく場合には――「狂喜」に近いものとなることも戸島先生が指摘された通りです。
むしろ私が指摘しておきたいことは、この根本情動が、先のハイデガーの場合と同じように、と同時に正反対の方向に、ベルクソンを哲学史、そして言語の問題へと向かわせるということです。すなわち、ベルクソンにおける哲学することの根本情動が「歓喜」であることは、彼の哲学史の読み直しの作業――科学の歴史と密接に絡み合ったものとして描き出されるそれ――、そして彼の言語観――言語は生成変化の交通手段(transport)である――と直接的に結びついている、ということです。郷愁や回帰ではなく、歓喜であり前進(marche en avant)なのです。
以上が、ベルクソンとハイデガーにおける哲学史の読み直しという作業について、私であれば言うであろうことのごく簡単な概要です。
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