引き続き宗教改革における結婚論。宗教改革と結婚が深い関係をもっていることは、大学人程度の教養があれば誰でも知っている。後はそれをいかに深められるか。日々是努力。
まず、ルターを英雄的な改革者にしすぎず、しかし着実に新しかった「世俗化」的な側面を見落とさないよう、警戒しておく必要がある。彼による結婚の「宗教改革的転回」の意味を見定めるためには、次のような「亭主関白」(笑)と同時に子供への目線も心にとめておく必要がある。「子供」に対する視線がパウロの結婚論にほぼ欠けていたことを想起しよう。
《ルターの夫婦観は、ドイツ人らしい「亭主関白」であった。彼によれば、夫は妻の頭であり、妻は夫を愛し、その命令に服従すべきである。もちろん夫は妻を親切に指導すべきであるが、夫は根本的には妻を支配すべきであった。これは当時としては一般的な夫婦観であった。
ルターは結婚して、結婚が神の恵みであると感じた。彼は語っている。「わたしは全世界のすべての教皇の神学者よりも富んでいる。なぜなら、わたしは満ち足り、そのうえ結婚によってすでに三人の子供を与えられたが、教皇の神学者たちは子供を与えられていないからである」》(小牧治・泉谷周三郎『センチュリーブックス(人と思想9) ルター』、清水書院、1970年、101頁)。
ここで、ローマ的結婚とは異なり、子供は家系の維持のためのものと考えられていない(ように見える)。
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スティーヴン・F・ブラウン『〈シリーズ 世界の宗教〉 プロテスタント』(原書2001年、五郎丸仁美訳)、青土社、2003年。
藤代幸一編訳『ルターのテーブルトーク』、三交社、2004年。
前者は味もそっけもない概説書の典型である。が、苦痛をおして読む。努力とはつまらないものを我慢して読むことでもある(ほんとの努力は「考える」ことだけどね)。面白いものばかり読むのを努力とは言わない。
後者は、「在来の『卓上語録』にまつわるイメージから脱却し、新しい時代、新しい読者に対応できるように」、編集部からの提案でTischredenを「テーブルトーク」としたそうだ(「あとがき」、277頁)。最初ギョッとしたが…。中身は、徳善氏の本より「人間臭い」ルターの「原典による信仰と思想」という感じ。結婚についても、もちろん一項が割かれている。
が、結婚に関するルターのテーブルトークの数々は、冗談のつもりだったのか、周りのレベルにあわせたのか、率直に言って言葉が汚く("furtz lecher"(屁の穴)!)、理論的な中身としても、パウロ的視座――姦淫や売春に対する「良薬」としての結婚――とさほど変わりがない。
《そもそもキリスト教徒でありたいと願うわれわれは、聖パウロも「神は淫ら者や姦淫する者を裁かれるのです」(「ヘブライ人への手紙」13:4)と言うよう に、神の言葉に公の命令を見ている。(…)神の慈悲による良薬は、結婚ないし結婚生活に入るという希望である。しかしながら売春を罰せずに大目に見たら、結婚生活という薬や希望をなぜ必要としようか?》(6924←ワイマール版ルター全集中の卓話の通し番号)
『テーブルトーク』の中では、次のような宣言が唯一いわゆる「ルター的」な結婚観をほんのわずか垣間見せるものであった。やはり彼の論文(前出)を読まないといけない。
「神は結婚生活の上に十字架をつくられた。そしてその上には、教皇と悪魔は結婚生活に敵意を抱いているとの言葉が響き渡る」(1008)
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