Saturday, March 03, 2012

再試に関する補遺(1)定言命法

再試の件、nさんをはじめ、高名な友人たちが宣伝してくださったおかげで、ちょっとした反響があったようです。宣伝してくださったみなさま、どうもありがとうございました。

あんな長い文章は読みたくないという方のために、実際に学生に送ったのと同じような500字のメール文をここに再録しておきます。

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X君、個人的な事情を答案に書き込むのはルール違反です。1)家庭内の個人的な問題は、すでに試験の前から分かっていたことです。どうして単位に困らないように大学での「人生設計」をしておかなかったのですか。2)「内定が決まっているから、卒業させてください」と君は書いていますが、大学を卒業するための努力と、企業に入るための努力は、別物です。「内定が決まっているので、勉強はしませんでしたが、単位をください、卒業させてください」というのは、 「もうすぐ飛行機が出発するので、パスポートは持ってきませんでしたが、出国させてください」というのと同じです。3)一度も私に相談しに来ませんでしたね。直接会って、事情を話し、再試のために一生懸命頑張るので、勉強の仕方をアドバイスしてください――そう頼みこむのが「絶体絶命」の時の振る舞いではありませんか?本気度が足りないと思います。どこか甘いと思います。4)何より言いたいのは、上記のような非合理的な論理を振りかざして、教師に精神的負担をかけるようなことをすべきでない、ということです。私は本当はこのように思っているということをぜひお伝えしておきます。

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ところで、その文の末尾に「嘘をつく権利を斥けたカント恐るべし」と書いて、カントの定言命法を賞讃したのだが、知らない方のために大ざっぱに解説しておこう。

あなたはナチス時代のドイツ人である。ユダヤ人があなたの家に逃げ込んできたので、かくまったのだとしよう。五分後、ゲシュタポがやってきて、こう尋ねる。「あなたの家にユダヤ人が逃げ込んだという情報があったが、本当か?」

これに対して、「いいえ、かくまっていませんよ」と言えば、ユダヤ人に対しては道徳的かもしれないが、「嘘をついた」という意味で道徳的ではない。逆に、「はい、私はユダヤ人をかくまいました」と吐露すれば、嘘はつかなかったという意味で道徳的だが、ユダヤ人が連行され、収容所送りになるという意味で道徳的ではない。

ケース・バイ・ケースで「嘘をつく」ことが道徳的でありうるか否か。これがカントと『アドルフ』で有名な文学者・思想家のバンジャマン・コンスタンの間に持ち上がった論争であり、カントは、「嘘をつく」ことは最終的には道徳的であり得ない、という立場をとった。

いついかなる時にも普遍的に妥当するように行為せよ――これが「定言命法」と呼ばれるものである。ちなみに、「元気な時はお年寄りに席を譲ってあげるが、バイト帰りで酔っぱらって疲れているときは不機嫌そうな顔をして、優先座席で携帯をいじっている」というのは、仮言命法(仮に~であれば、~する)である。

自分が疲れていようがいまいが、お年寄りがいようがいまいが、優先座席には座らない。お年寄りがいたら、自分がどんな精神的・身体的コンディションであろうが、席を必ずにこやかに譲る。それが定言命法である。

なぜ、カントにとって「嘘も方便」ではないのか。それは、「必要なら嘘をついてもよい」という格率(行動するうえでの自分にとっての決まりごと)に社会の構成員全員が従ったとしたら、社会秩序の維持が困難になるからである。社会全体にとっての道徳、いついかなる時でも万国共通に通用する道徳は「嘘も方便」ではなく、「嘘はつくな」でなくてはならない。

これは要するに、カントは道徳においてケース・バイ・ケースを認めないということである。(続く)

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