Tuesday, March 06, 2012

アレゴリー

フランス文学の分野で貢献できることはあまりないが、「哲学と文学」の狭間で、もう一度、修辞学に関する事柄、レトリック、比喩、隠喩、アナロジーなどについて再検討してみたいという気持ちはずっとある。

というわけで、ナンシーの一節。これは、Philippe Lacoue-Labarthe, L'"Allegorie", suivi de Un commencement par Jean-Luc Nancy, éd. Galilée, 2006.に寄せられた付論の中の一節である。ナンシーはもちろんここで、ベンヤミンの有名な区別を念頭に置いている。

《「アレゴリー」が、メタファーとして役立つ具象的な物を用いて或る観念を呈示する手法を指すのだとすれば、そして、アレゴリーがロマン主義においては、均質的な一要素内における呈示としての「象徴」と絶えず対立させられているとすれば――雷はゼウスの象徴だが、雷を手にした人物はアレゴリーである――、アレゴリーとは、指示対象と指示行為の間に横たわる還元不可能な他性の体制を指す。文学がアレゴリー的なものであるとすれば、それはつまり、言語的な素材はそれが喚起し、引き合いにだし、出頭を命じるものとは無縁のままに留まるということである。》

ちなみに、アレゴリー(allégorie)は、all(o)-(他の、異質の)、つまりhétéro-とagoreuein(話す)からなる語であるが、これに対して、tauto-(同じ、等しい)、つまりhomo-という接頭辞を付したtautégorieという造語を提唱したのがシェリングである。

アレゴリー(寓意)は、個別による普遍への接近を目指す。イソップの寓話において、「働き者のアリ」は、「勤勉さ」という抽象概念を理解させようとする。

これに対して、タウテゴリー(自意)は、すでに普遍を内包した個別である。ギリシア神話において、「知の女神アテナ」は、単に知という抽象概念へ接近させるのみならず、それ自体が神性という普遍の厚みを持って自存しているものである。

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