そのとき、どうするのか。
おそらく大学で哲学や文学、ひいては人文学を勉強する意味はそこらへんにあるのではないか。そして、繰り返しになるが、深く潜るためには訓練と準備が欠かせない。
大学の、しかも学部で教えられるのは、サンゴ礁やその中でイソギンチャクと共生するクマノミ――『ファインディング・ニモ』で有名になったオレンジ色の魚――を観賞し、浅瀬での散策を楽しむ程度のことにすぎない。
しかし、それでも、海の中の静けさと別の仕方で流れる時間を感じられるだけでも、青少年にとって大きな収穫ではないか。
海は時に穏やかで、時に美しく、時に暴力的で、時に怖ろしい。海の美しさと表裏一体をなす海の暴力は、地上の暴力とは違い、異様に巨大なものだ。
恐ろしさを感じさせるまでには至らないだろう。それでも、いつか大波に巻き込まれることもあるかもしれない、そのときのために、言葉を費やす。
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前の日に徹夜で遊んで、講義もろくに聴かずに、ゼミの予習・復習もしないで、それでいて、「哲学する」ことなどできはしない。(天才をもちだす議論も相手にしない。天才も「方法」や「道具」は持っている。)
「潜る」と一口に言うが、深く潜るには、水圧に体を馴らしていかなければならないため、徐々に深度を下げていく。一気に深く潜れば、鼓膜が破れる。内臓に負担がかかる。空気抜きをしながら、徐々に潜っていく。上がっていくときも同じである(急浮上すると減圧障害に陥る危険がある)。時間がかかるのだ。
酸素ボンベは実は重い。海の中で下手にそっくり返ると、亀のように起き上がれなくなってしまう。だから、常に前傾姿勢で、特に初心者は這いつくばるように、亀のように振る舞う。慎重でなければならない。行動に一手間も二手間も加えなければならない。
概念という道具を用い、論理構造に気をつかい、ゆっくりと思考の螺旋を降りていく。焦ってはならない。手軽に成果を求めてもならない。
最初からそれを言うと、学生は逃げていくので、楽しげにゼミを進めることに意を用い、「問題意識を少し持ってもらえればそれでいいか」というくらいでお茶を濁すことになる。だが、スキューバーダイビングのインストラクターは、浅瀬でばちゃばちゃさせておくことを本当は少し残念に思っているかもしれない。
浅瀬を過ぎると、急に深くなり、急に不透明さを増し、まだ深淵などほど遠い深さであると理性では分かりつつも、急に本能的な怖れを感じさせる場所に出る。そこからが本当の魅力であり、美醜を超えた、神秘的で暴力的な、「美しさ」である、と。
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