《…自分が見聞きしたことから、作家は目を赤く充血させ鼓膜に孔をあけて帰ってくる。》(ドゥルーズ『臨床と批評』)
いつも学生たちに言っていることなのだが、哲学することはスキューバーダイビングに似ている。
「深く考える」ことと、「ぐちゃぐちゃ考えてしまう」こととはまったく次元の異なる営為である。
(最初から無駄な議論を防ぐために言っておくが、「深く考える」とは「表層を考える」ことと必ずしも矛盾しない。「表層を深く考える」こともできるからだ。)
いくら必死に手足を動かそうが、それが滅茶苦茶なやり方であればあるほど、その人の泳ぎはますます不自由になるばかりである。それでは、「溺れる」ことはできても、「深く潜る」ことはできない。
深く考えるには「方法」が必要だ。最低限きちんとした「道具」も要る。
「哲学は誰のものでもない、誰のものでもある」と言われることがある。
たしかにそうなのだが、それは「誰にでも、いつでも、どこでも水辺の水遊びはできる」という意味なのであって、「誰にでも、いつでも、どこでも、準備なしに、方法や道具なしに、深く深く潜れる」という意味ではない。
体調も整えずに、インストラクターもなしに、きちんとした指導も受けずに、水の中を自由に動き回ることはできない。特に深く潜ることはできない。簡単な潜りにすら方法があり、道具がある。そして、簡単な潜りでは、当然行動範囲は限られる。(続く)
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