Sunday, March 04, 2012

再試に関する補遺(2)真夜中の赤信号

ところで、学生をめぐるどのような決定に関しても言えることだが、chaque fois unique「その度ごとにただ一つ」だと思う。本当にケース・バイ・ケースで、同じようなケースでも、学生のパーソナリティ、状況、こちらを取り巻く情 勢などによって当然、変わってきうる。


それでは客観性、公平性が保たれないではないか、という声もよく分かる。こちらも、それらの確保・維持には苦心しているのである。

しかしだ、社会人の友人諸君。会社の内外で、農場の内外で、客観性・公平性を保つためと言いながら、実際には、いちいち悩むのが面倒になって、個々のケースへの繊細な配慮が欠落しているだけ、いささか自動的・機械的に処理してしまっているだけ、ということはないか?そう、このような 悩みは社会人一般にあるはずなのである。

こと教育業界では、それはいっそう大きな悩みとなる。私たちは発育途上の青年たちを相手にしているのであり、テストであれ、レポートであれ、採点は、彼らのさらなる知的・精神的発達を促すべきものであるはずだからである。


だからこそ悩むのであり、だからこそあのように自分を奮い立たせ、自分に凛とした決断を迫る文章を書かねばならないのである。教員は、学生たちが思っている以上に繊細に個々の学生を見ているということを、学生諸君には伝えておきたい。





だから、逆の悩みも書いておく。「出発直前の空港」とは逆の、「真夜中の赤信号」という話である。

町外れの人通りもまばらな場所で、真夜中、左右を十分確認したうえで、赤信号を渡っていると、後ろから自転車に乗った警官が注意しにくる。「今、君、赤信号って知ってたよね?」「あ、はい、すみません」。

もちろんこの警官がしたことは、彼の職務上すべきことであり、彼は職責を果たしたにすぎない。だが、である。信号とは人命を守るためにあるのであって、杓子定規に守らせることにどれくらい意味があるのか。

試験は一律同じ基準。しかし、試験が人を斬り捨てるだけでなく、伸ばすものでもあろうとするなら、究極的には試験は、学生ごとにそのときの彼のレベルを引き上げることを最大の目標とすべきであろう。

ならば、再試とは、少なくとも、これまではまったく勉強する気のなかった学生が、わずかでも勉強に対する意志を持ち、学問に対するわずかな敬意をもって接するようになるきっかけとなればそれでいいのではないか。

法は法のためにあるのではなく、人を蹴落として二度と這いあがれなくするためにあるのでもなく、人を「救う」ためにあるのではないのか。テストもまた同じではないか。

そう思う自分もまた同時にいるのである。



だが、学生とは子どもと同じである。子どもは親が思っているほど、親の子育ての一挙手一投足に敏感ではない(むろん子どもの側からは反論が予想されるが、今は措く)。学生は教師が思っているほど、授業の組み立てや、シラバスの構成や、なぜ「筆記試験・持ちこみ不可」なのかについて思いを巡らせない。

彼らの「授業評価」なる裏サイトをざっと見れば分かる。彼らにとって興味があるのは、ほとんどの場合、「楽勝であるかないか」、「ノート持ち込み可であるかないか」であって、授業が面白い、刺激を受けたといったことを授業履修の基準とする学生は、いるにはいるが、ごく少数である。

全員の点数が低い場合、一定程度点数を全員上げてやることを「下駄を履かせる」というが、下駄を履かせて、不可であった学生を可にしても、彼がそれを機会に自分の不勉強を恥じ、勉強に転じるという可能性は限りなく低い。「やった、ラッキー、もうけもん」という程度の感興である。

卒業に関しても同じではないか。悩んだ挙句に無理やり通してやっても、「やった、ラッキー、もうけもん」で終わりではないのか。それが教育なのか。

経験を積んだ先生方からは「真面目ですねえ」と茶化されるが、仕方ない。自分なりの「定言命法」を探し当てるためには、一つ一つ経験を積んでいくしかないのだろう。

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